元文学部としては、大学の授業では、「作品主義」をとる助教授の授業に、
「それだけでいいのかなぁ~?」
と疑問に思っていたので、かなり面白く読めました。
※「作品主義」→大雑把に言うと、純粋に作品のみとりあげ、そのなかで解釈していきます。
私の考えでは、良い作品と言うのは、「才能」だけでなく、「時代性」も
必要なわけで、「時代性」を持っている作品を取り上げ、
社会学的に整理していくのは、別におかしなことではないと思うのです。
圧倒的に面白かったのは、「おんな」の項です。
特に、「女装した家父長制――日本の母の崩壊の章」はとりわけ面白かった。
「連合赤軍とフェミニズムの章」も一切、全共闘時代を知らない私が読んで面白く、
「連合赤軍事件」「永田洋子」を検索し、その記事を全部読んでしまうほど面白かった。
彼女の、文壇に賛否両論を巻き起こしたという、「男流文学論」も読んでみたくなりました。

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上野千鶴子が文学を社会学する (朝日文庫 う 5-3) 文庫 – 2003/11/1
上野 千鶴子
(著)
- 本の長さ295ページ
- 言語日本語
- 出版社朝日新聞出版
- 発売日2003/11/1
- ISBN-104022643196
- ISBN-13978-4022643193
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登録情報
- 出版社 : 朝日新聞出版 (2003/11/1)
- 発売日 : 2003/11/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 295ページ
- ISBN-10 : 4022643196
- ISBN-13 : 978-4022643193
- Amazon 売れ筋ランキング: - 633,217位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2020年8月29日に日本でレビュー済み
最近平山周吉による評伝などを読んで、江藤淳への関心が少しく甦ったこともあり、以前いちど読んだことのあるこの上野千鶴子著『文学を社会学する』を久しぶりに手にとりました。この書にたしか江藤淳論が入っていたはずだと思い出したからです。
あとがきで著者は、「あらゆる分野になりふりかまわず越境していく」社会学という「新参者」の学問は、旧来のディシプリンがいまなお厳然たる権威をもって幅をきかすアカデミアのなかでは「評判はすこぶる悪い」と書いていて、社会学者としてのある種のルサンチマンをぶちまけています。
まあ、日本でも翻訳が数多くあり、世界的にもよく知られたフランスの社会学者ピエール・ブルデューもフローベールを論じた大著を出したとき、自分の本が文学研究者からまったく相手にされなかったことで類似のルサンチマンというか愚痴をたしかこぼしていたことが思い出され、アカデミアの世界では事態はどこでも同じということなのでしょう。
本書に収められた江藤淳論といっても、ここに収められているものは、「女装した家父長制」という章のなかで、江藤淳の『成熟と喪失』を敷衍しながら、著者なりの論を展開しているというもので、講談社学芸文庫版『成熟と喪失』に著者が書いた解説の内容と重なるところもあり、再読でさほどあらたな発見というものがなかったのも事実です。
本書全体をあらためて読みなおしてみて、以前読んだときにもやはり感じたことですが、やや雑多なエッセイが収められている本書で異色ともいえる文章は、岡井隆論「男歌の快楽(けらく)―岡井隆頌」です。
著者はそこで最初に「岡井の歌は、何よりも男の短歌である」とまず断じます。そして彼の歌は「荒削りで、短歌の規矩をしばしばはみ出てあふれ出す生理は、なによりも男を感じさせる」と書き、そのあとすぐ、
掌(て)のなかへ降る精液の迅きかなアレキサンドリア種の曙に
をはじめとするいくつかの岡井の歌を引きます。
そこで段落が変わり、「わたしの好きな俳優に、マーロン・ブランドという男優がいるが、岡井隆の男歌は、マーロン・ブランドを思いおこさせる」という一文が新たな段落を起こします。
この段落は、「男」、「男」、「男」…という語が頻出したうえで、「男の輪郭を男の生理がはみ出して、その頽(くず)れから、思いがけず、草いきれのような男くささが匂いたつ。それに自分がまっさきにむせている、男」という文で締められます。
つぎの段落は「まともに恋愛したことのある男を、女は見抜く云々」という箴言ふうの一文で起こされます。「岡井の歌は、成熟した男の歌だ。成熟した女の凝視に耐える、成熟した男の優しさと羞(やさ)しさに満ちた歌だ」という文もその段落に見えます。
うーん、これはいったい何なんだろう、著者がこんなに「男」、「男」、「男」…と口にし、かつ「男」を肯定的にとらえているのはちょっとびっくりというか。
この文章は最初、1990年刊行の岡井隆自選歌集『蒼穹の密』(沖積舎)にさしはまれた栞に書かれたものです。
当時上野と岡井は京都の大学で同僚だったようで、プライベートなことはともかく、この文章はほとんど岡井への、ついに出されなかった、秘めたるどころか堂々とした、熱い、熱いラブレターのような趣さえ感じさせるものがあります。上野にとって岡井は男としてずいぶん魅力的だったのでしょうね。
岡井隆(1928-2020)はつい最近亡くなったばかりですが、前衛短歌の歌人としてつとによく知られ、晩年は宮中歌会始の撰者となった人です。
とはいってもかれは、それこそ上野千鶴子が蛇蝎の如く嫌う吉行淳之介ばり(?)の女性関係をめぐるエピソードがいくつもあったことはよく知られた事実です。
ちなみに評者は岡井隆のよき読者ではありませんでした。短歌の素人愛好家として、評者はむしろ、齋藤茂吉、塚本邦雄、俵万智というそれぞれほぼ40年ほどの間隔をおいて現れた、短歌言語のほとんど革命といっていいほどの新たな日本語創造に寄与した歌集を出した歌人たちを愛するものです(俵万智の『サラダ記念日』から今年あたりで40年ほど経つので、近いうちにまた短歌言語のあらたな創造が生まれるのを期待したいところです)。ただし詩論家というか短歌原理論の探求者としての岡井隆は高く評価していますが。
なお本書の解説は、高橋源一郎が書いています。これはこれでひたすら上野千鶴子を礼賛する文章で、著者を礼賛することじたいは別にいいのですが、正直いって、個人的な感想ながら、なんとも書き方が気持ちの悪い文章というよりほかありません。
あとがきで著者は、「あらゆる分野になりふりかまわず越境していく」社会学という「新参者」の学問は、旧来のディシプリンがいまなお厳然たる権威をもって幅をきかすアカデミアのなかでは「評判はすこぶる悪い」と書いていて、社会学者としてのある種のルサンチマンをぶちまけています。
まあ、日本でも翻訳が数多くあり、世界的にもよく知られたフランスの社会学者ピエール・ブルデューもフローベールを論じた大著を出したとき、自分の本が文学研究者からまったく相手にされなかったことで類似のルサンチマンというか愚痴をたしかこぼしていたことが思い出され、アカデミアの世界では事態はどこでも同じということなのでしょう。
本書に収められた江藤淳論といっても、ここに収められているものは、「女装した家父長制」という章のなかで、江藤淳の『成熟と喪失』を敷衍しながら、著者なりの論を展開しているというもので、講談社学芸文庫版『成熟と喪失』に著者が書いた解説の内容と重なるところもあり、再読でさほどあらたな発見というものがなかったのも事実です。
本書全体をあらためて読みなおしてみて、以前読んだときにもやはり感じたことですが、やや雑多なエッセイが収められている本書で異色ともいえる文章は、岡井隆論「男歌の快楽(けらく)―岡井隆頌」です。
著者はそこで最初に「岡井の歌は、何よりも男の短歌である」とまず断じます。そして彼の歌は「荒削りで、短歌の規矩をしばしばはみ出てあふれ出す生理は、なによりも男を感じさせる」と書き、そのあとすぐ、
掌(て)のなかへ降る精液の迅きかなアレキサンドリア種の曙に
をはじめとするいくつかの岡井の歌を引きます。
そこで段落が変わり、「わたしの好きな俳優に、マーロン・ブランドという男優がいるが、岡井隆の男歌は、マーロン・ブランドを思いおこさせる」という一文が新たな段落を起こします。
この段落は、「男」、「男」、「男」…という語が頻出したうえで、「男の輪郭を男の生理がはみ出して、その頽(くず)れから、思いがけず、草いきれのような男くささが匂いたつ。それに自分がまっさきにむせている、男」という文で締められます。
つぎの段落は「まともに恋愛したことのある男を、女は見抜く云々」という箴言ふうの一文で起こされます。「岡井の歌は、成熟した男の歌だ。成熟した女の凝視に耐える、成熟した男の優しさと羞(やさ)しさに満ちた歌だ」という文もその段落に見えます。
うーん、これはいったい何なんだろう、著者がこんなに「男」、「男」、「男」…と口にし、かつ「男」を肯定的にとらえているのはちょっとびっくりというか。
この文章は最初、1990年刊行の岡井隆自選歌集『蒼穹の密』(沖積舎)にさしはまれた栞に書かれたものです。
当時上野と岡井は京都の大学で同僚だったようで、プライベートなことはともかく、この文章はほとんど岡井への、ついに出されなかった、秘めたるどころか堂々とした、熱い、熱いラブレターのような趣さえ感じさせるものがあります。上野にとって岡井は男としてずいぶん魅力的だったのでしょうね。
岡井隆(1928-2020)はつい最近亡くなったばかりですが、前衛短歌の歌人としてつとによく知られ、晩年は宮中歌会始の撰者となった人です。
とはいってもかれは、それこそ上野千鶴子が蛇蝎の如く嫌う吉行淳之介ばり(?)の女性関係をめぐるエピソードがいくつもあったことはよく知られた事実です。
ちなみに評者は岡井隆のよき読者ではありませんでした。短歌の素人愛好家として、評者はむしろ、齋藤茂吉、塚本邦雄、俵万智というそれぞれほぼ40年ほどの間隔をおいて現れた、短歌言語のほとんど革命といっていいほどの新たな日本語創造に寄与した歌集を出した歌人たちを愛するものです(俵万智の『サラダ記念日』から今年あたりで40年ほど経つので、近いうちにまた短歌言語のあらたな創造が生まれるのを期待したいところです)。ただし詩論家というか短歌原理論の探求者としての岡井隆は高く評価していますが。
なお本書の解説は、高橋源一郎が書いています。これはこれでひたすら上野千鶴子を礼賛する文章で、著者を礼賛することじたいは別にいいのですが、正直いって、個人的な感想ながら、なんとも書き方が気持ちの悪い文章というよりほかありません。
2004年3月21日に日本でレビュー済み
東大きってのやんちゃ教授、構造主義文化人類学の権威、
そして泣く子も黙るフェミニスト(女である事で損をしない為に声を張り上げる女たち)上野千鶴子さんの近作です。
1.平成言文一致体とジェンダーの章。
常々“ことばは生き物、言説が社会を変革する”と主張される先生は まず明治期“言文一致体”の分析から始まって“平成言文一致体”、男ことば女ことばの変遷を見て行きます。
“性別規範がおんな言葉の側から解体を遂げつつある”
確かに女ことばより男ことばは自己主張性に勝れているのかも知れません、女が男ことばで男と対等に渡り合う事に何らかの意義が有るのかも知れませんが、女学生たちの画一化された男ことばを聞くとき、女が男の言葉を奪い取った事で、社会を変革するどころか何か陳腐な言葉の弱さのみが残された気がします。
2.連合赤軍とフェミニズムの章。
もはや昔語りとなりましたが連合赤軍の中で女の取り得た二つのオプションが示されます。
男に尽くし愛される“かわいい女”になるか、それとも男の価値を内面化して男なみの女になるか。
勿論“男なみ”にはなりたくない先生は いずれの道も拒絶されますが、では男支配の論理から脱皮した女の論理とは何か?男ことばをこよなく愛され、別の著作で男の好きなあの“4文字熟語”を教授の権威でバシバシ乱射された先生の女の論理が 私の勉強不足かも知れませんがこの著作からはちょっと伝わりませんでした。
3.女装した家父長制――日本の母の崩壊の章。
安岡章太郎“海辺の光景”・小島信夫“抱擁家族”・土井健郎“「甘え」の構造”・古沢平作(小此木啓吾)“阿闍世コンプレックス”などの分析を通して“恥ずかしい父”対“失望した母”・“ふがいない息子”・“ふきげんな娘”の“日本型エディプスの三角形”が抽出されます。
“父の不在”と“母の優位”が しばしば“母性支配”とは全く異なる事、“自己犠牲する母”の名の元にかくされた“女装した家父長制”である事が暴かれます。
父の意を体した“母の支配”は所詮“母”による家父長制の代行権力行使にすぎず、その陰で“不在の父”はにんまり笑っている。
しかし もはや母は叛旗を翻す、役割を放棄し家族は崩壊する。娘たちはますます不機嫌になる。
“母親らしくない”母に育てられる事で起きる“日本人の倫理観の危機”をめぐる問いなど、犬にでも食わせるがいい。教授はカカと大笑します。成るほどこれは教授の威勢の良い脅しでもなく、現実に起こっている事態です。それでも情けないかな オレはブツブツ言うしか能がない?
オレは家族を修復出来ない“恥ずかしい父”だけど“家族”まで奪われる罪を犯したのか?
そしてオマエは何処に行こうとしているのか?父性原理を拒絶し母性原理を拒否した彼女たちは自分が産み落とした家族を捨てて何処に行こうとしているのか?
せめて芥川賞の綿矢さんの様に背中を蹴とばす程度にしてくれないか?
なおも教授の大笑だけが響き渡ります。
そして泣く子も黙るフェミニスト(女である事で損をしない為に声を張り上げる女たち)上野千鶴子さんの近作です。
1.平成言文一致体とジェンダーの章。
常々“ことばは生き物、言説が社会を変革する”と主張される先生は まず明治期“言文一致体”の分析から始まって“平成言文一致体”、男ことば女ことばの変遷を見て行きます。
“性別規範がおんな言葉の側から解体を遂げつつある”
確かに女ことばより男ことばは自己主張性に勝れているのかも知れません、女が男ことばで男と対等に渡り合う事に何らかの意義が有るのかも知れませんが、女学生たちの画一化された男ことばを聞くとき、女が男の言葉を奪い取った事で、社会を変革するどころか何か陳腐な言葉の弱さのみが残された気がします。
2.連合赤軍とフェミニズムの章。
もはや昔語りとなりましたが連合赤軍の中で女の取り得た二つのオプションが示されます。
男に尽くし愛される“かわいい女”になるか、それとも男の価値を内面化して男なみの女になるか。
勿論“男なみ”にはなりたくない先生は いずれの道も拒絶されますが、では男支配の論理から脱皮した女の論理とは何か?男ことばをこよなく愛され、別の著作で男の好きなあの“4文字熟語”を教授の権威でバシバシ乱射された先生の女の論理が 私の勉強不足かも知れませんがこの著作からはちょっと伝わりませんでした。
3.女装した家父長制――日本の母の崩壊の章。
安岡章太郎“海辺の光景”・小島信夫“抱擁家族”・土井健郎“「甘え」の構造”・古沢平作(小此木啓吾)“阿闍世コンプレックス”などの分析を通して“恥ずかしい父”対“失望した母”・“ふがいない息子”・“ふきげんな娘”の“日本型エディプスの三角形”が抽出されます。
“父の不在”と“母の優位”が しばしば“母性支配”とは全く異なる事、“自己犠牲する母”の名の元にかくされた“女装した家父長制”である事が暴かれます。
父の意を体した“母の支配”は所詮“母”による家父長制の代行権力行使にすぎず、その陰で“不在の父”はにんまり笑っている。
しかし もはや母は叛旗を翻す、役割を放棄し家族は崩壊する。娘たちはますます不機嫌になる。
“母親らしくない”母に育てられる事で起きる“日本人の倫理観の危機”をめぐる問いなど、犬にでも食わせるがいい。教授はカカと大笑します。成るほどこれは教授の威勢の良い脅しでもなく、現実に起こっている事態です。それでも情けないかな オレはブツブツ言うしか能がない?
オレは家族を修復出来ない“恥ずかしい父”だけど“家族”まで奪われる罪を犯したのか?
そしてオマエは何処に行こうとしているのか?父性原理を拒絶し母性原理を拒否した彼女たちは自分が産み落とした家族を捨てて何処に行こうとしているのか?
せめて芥川賞の綿矢さんの様に背中を蹴とばす程度にしてくれないか?
なおも教授の大笑だけが響き渡ります。
2004年2月5日に日本でレビュー済み
本書のなかでとくに好きな論文がある。「女装した家父長制」というやつだ。
このなかで上野は、「日本の母」という役割規範が言説のなかで構成される「仮構」であることを確認したうえで、それを具体的に論証してゆく。
文学/文芸批評が、正統な存在としての「日本の母」とその消滅を語るとき、それらは、消滅した存在の正統性とともに、この二項区分の「土俵」である隠蔽された家父長制をも承認している。この隠された家父長制が「女装した家父長制」である。
「恥ずかしい夫」「自己犠牲する母」「情けない息子」「不機嫌な娘」という産業資本主義下の近代家族的配置のなかで、母は不在の夫になりかわって(正確にはその意図を実行するだけだが)息子のパーソナリティ形成過程に介入する。こうした家父長制を文学/文芸評論は前提しているのだ。
そして精神分析と日本文化論のミクスチャーが、普遍理論の装いのもとでこの配置を保障する。
かくして、文学/文芸批評と精神分析がひらく言説空間のなかで「日本の母」は(その消滅を宣告されつつ)仮構される。
上野の手際はすばらしくあざやかで爽快だ。そして、最後のほうにでてくる
「母親業の放棄?父親業をとっくに放棄したオトコに、そんなことをいう資格はない。倫理?そんなものは犬にでも喰わせろ。」
みたいな啖呵(うろ覚えだけど)を読んでスカッとするのは私だけではあるまい。
数十ページの論文でこれだけのことができる。以前単行本で読んで感動したのを思い出した。
こんな論文が入っている本が文庫で手軽に読めるなんて、しあわせだと思いませんか?
このなかで上野は、「日本の母」という役割規範が言説のなかで構成される「仮構」であることを確認したうえで、それを具体的に論証してゆく。
文学/文芸批評が、正統な存在としての「日本の母」とその消滅を語るとき、それらは、消滅した存在の正統性とともに、この二項区分の「土俵」である隠蔽された家父長制をも承認している。この隠された家父長制が「女装した家父長制」である。
「恥ずかしい夫」「自己犠牲する母」「情けない息子」「不機嫌な娘」という産業資本主義下の近代家族的配置のなかで、母は不在の夫になりかわって(正確にはその意図を実行するだけだが)息子のパーソナリティ形成過程に介入する。こうした家父長制を文学/文芸評論は前提しているのだ。
そして精神分析と日本文化論のミクスチャーが、普遍理論の装いのもとでこの配置を保障する。
かくして、文学/文芸批評と精神分析がひらく言説空間のなかで「日本の母」は(その消滅を宣告されつつ)仮構される。
上野の手際はすばらしくあざやかで爽快だ。そして、最後のほうにでてくる
「母親業の放棄?父親業をとっくに放棄したオトコに、そんなことをいう資格はない。倫理?そんなものは犬にでも喰わせろ。」
みたいな啖呵(うろ覚えだけど)を読んでスカッとするのは私だけではあるまい。
数十ページの論文でこれだけのことができる。以前単行本で読んで感動したのを思い出した。
こんな論文が入っている本が文庫で手軽に読めるなんて、しあわせだと思いませんか?
2004年6月14日に日本でレビュー済み
この題名はひどいです、この本の上野さんの文章はそんな感じははありません。上野さんにも強いところと弱いところがあるとすれば、弱いところ・・、これは開き直れきれていないところという意味じゃないですよ、
弱いところを弱いと認めて耐えている、そんな風に僕には読めました。
解説の高橋源一郎さんも「上野さんは人を切る分だけ自分も傷ついている」といわれていますが、そんな感じが伺える本です。
弱いところを弱いと認めて耐えている、そんな風に僕には読めました。
解説の高橋源一郎さんも「上野さんは人を切る分だけ自分も傷ついている」といわれていますが、そんな感じが伺える本です。