セルビアの人とは最近英会話のレッスンで話すようになったのですが、ほかの国の人たちよりも話しやすかったので話題作りの参考に。。と思って手に取ってみました。
読んでみて驚いたのですが、もともとユーゴスラビアという国だったのが、どんどん民族ごとに独立していくんですが、その過程が第二次世界大戦時の日本と似ているなぁとおもいました。
セルビア人たちも基本的に”お人よし”のようなので、一部の過激な人たちが、やっていないことをあたかもやったように主張しても、”片腹痛し”みたいな感じで放置してしまっていたみたいで、確かにセルビア人同士だとそれでいいのかもしれませんが、連日凄惨な現場がほかの国で報道され、それがどんどん燃え上がっていって最終的には極悪非道な人たちというレッテルを張られてしまいます。
結果として、国連からも追い出されてNATOからは劣化ウラン弾で爆撃されてしまう状態になってしまうわけですが、なんかその辺の流れもシンパシーを感じずにはいられないところでした。
この本のクライマックスでは、当時の大統領が退陣する歴史的瞬間のシーンで海外のプレスがもみくちゃにされる中で、著者の木村さんだけが、日本人だから味方だと言って周りのセルビア人が守ってくれるというところで終わります。確かにセルビア人は日本のことをよく知っていて、日本の剣道や合気道といった武道も女性に至るまで知っているみたいなので、根っこのところで価値観を共有できるところがあるなぁというのをこの本を読んで感じました。
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悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記 (集英社文庫) 文庫 – 2001/6/20
木村 元彦
(著)
「世界の悪者」にされ、NATOの空爆にさらされたユーゴ。ストイコビッチに魅せられた著者が、旧ユーゴ全土を丹念に歩き、その素顔を抉る。新たに100枚を書き下ろした力作。(解説・田中一生)
- 本の長さ448ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2001/6/20
- ISBN-104087473368
- ISBN-13978-4087473360
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2001/6/20)
- 発売日 : 2001/6/20
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 448ページ
- ISBN-10 : 4087473368
- ISBN-13 : 978-4087473360
- Amazon 売れ筋ランキング: - 311,907位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年10月12日に日本でレビュー済み
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妥当な表現かはさておき、凄いお洒落な本でした。ユーゴ、コソヴォ紛争をサッカーという切り口で描いています。サッカーというと一見娯楽ですが、よく考えると、逆に、民族や愛国心、その対立がもっとも象徴的に表現されるもので、この為これをモチーフにすることで、ユーゴ分裂の悲劇がよりリアルに伝わってきます。史上最高の才能が集まったユーゴ代表が、内戦で分裂する、だけじゃなく、国際的に制裁の対象となり試合の機会まで奪われ、さらには国が空爆まで受ける事となっていく。。登場人物も、サッカー選手だけでなく、サッカー協会幹部、政治家、犯罪組織、地元の高校生など多岐に渡り、それぞれ異なった民族、異なった役者が、それぞれの真実をもち、同じ内戦の時代を生きていく。ノンフィクションですが、まるで小説か演劇のような内容でした。
この作家さんは、知識や理論だけじゃなく、素朴な正義感をもって、現場の言葉を大事にし、民族問題とサッカーを考える、という柔軟性があって、すごく面白い本を書く人だと思います。
もしなければ、英語に訳して世界の人にも読んでもらいたい本だと思います。
この作家さんは、知識や理論だけじゃなく、素朴な正義感をもって、現場の言葉を大事にし、民族問題とサッカーを考える、という柔軟性があって、すごく面白い本を書く人だと思います。
もしなければ、英語に訳して世界の人にも読んでもらいたい本だと思います。
2018年9月22日に日本でレビュー済み
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バルカン半島のことについて、とても勉強になりました。
私のようにサッカーのことをよく知らない人でも、読み進められます。
南スラブ方面へ旅行や留学する方が事前に読まれる本の内の一冊としてもお勧めです。
私のようにサッカーのことをよく知らない人でも、読み進められます。
南スラブ方面へ旅行や留学する方が事前に読まれる本の内の一冊としてもお勧めです。
2014年3月23日に日本でレビュー済み
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とりあえず買ってみてください。できれば新品で。
あほな事を書いてるようですが、こういうジャーナリストは必要なんです。この著者のようなジャーナリストが日本にもっと増えてほしいんです。
あほな事を書いてるようですが、こういうジャーナリストは必要なんです。この著者のようなジャーナリストが日本にもっと増えてほしいんです。
2013年11月9日に日本でレビュー済み
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東欧のブラジルとまで言われた、華麗なサッカーを展開していた旧ユーゴスラビア。そこから、内戦を経て、各地域が分裂・独立した。著者は、丁寧に取材し、サッカーを通して、そこにある人々の人間模様を描いている。若干、セルビアへの思い入れが強いなと感じる部分はあるが、マクシミールの悲劇など、これまでの認識とは、違う側面を教えてくれた。完全なる悪、完全なる正義などないと教えてくれる1冊。
2013年5月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
もっと早く読んでおけばよかった。今さら感はあるけど十分楽しめる。
2017年11月17日に日本でレビュー済み
われわれがさして関心がない事柄でも、マスコミの報道というのは知らずしらずのうちに耳にはいってくるもので、その点ではマスコミの力は大きい。
当時からテレビも新聞もあまり見ておらず、ユーゴスラビア紛争やコソボ紛争に特に関心があるわけではなかったけれども、セルビアに関する悪評はなんとなく知っていた。民族浄化という名の下に恐ろしい虐殺を行っているらしいということを。
NATOによる爆撃が開始され、それまで加害者であったはずのセルビア人が急に被害者になり、一般的には正義の側と思われていたNATOがどうもそうでもないらしい気配がただよってきて、セルビア人のサッカー選手であるドラガン・ストイコビッチが、母国への爆撃中止を訴えるデモンストレーションをピッチ上で行ったとき、正直、どう反応していいのかわからなかった。
セルビア人=加害者側の民族 ストイコビッチ=サッカーのヒーロー
このふたつをうまく結びつけることができなかった。
といってもそれから急にユーゴ問題に関心が高まったというわけでもなく、ユーゴ紛争はユーゴ紛争であり、サッカーはサッカーであって、前者は後者に較べてあいかわらず興味を引く話題ではなかった。その点はいまでもそうである。ただしこの問題の理解が少しだけでも深まったとしたら、それはイビチャ・オシムとこの本の著書木村元彦氏のおかげである。
本書は、「サッカーを通じて世界を観る」という言葉がピッタリのレポートだ。
著者は、紛争の中心地である旧ユーゴスラビア各地でサッカーとサッカー選手を取材して回る。
憎悪が蔓延しているこの地域で、縁もゆかりもない日本人フリーライターが、場違いにもサッカーのインタビューをして歩こうというのだから、非常に馬鹿馬鹿しいシチュエーションというか、聞かれた方がビックリするだろうし、まかり間違えば相手を怒らせて殺されかねないだろう。実際著者はコソボの武装組織に銃口をつきつけられ地べたに這わされるという目にあっている。
ではこれは無責任な傍観者のレポートなのだろうか。
本人は真剣のつもりでも現地人にとってはた迷惑でしかない、一人よがりのジャーナリストによる勘違いレポートなのだろうか。
そうではない。ここでは、人々の生活の中に息づいているサッカーというポーツを通すことによって、戦争という異常な現象が生活の中にどう入り込んでいるのか、その姿をまざまさと浮かび上がらせている。戦争というものを知らないわれわれにも、サッカーという共通言語を通して、その過酷さと無慈悲さを知らしめる。国際政治の中の大言壮語ではなく、生活のレベルで、戦争のもたらす悲惨な風景を浮かび上がらせている。それは、著者のまっとうな視線と筆力のおかげであるが、サッカーという国際的でありかつ個人に親密なスポーツが持つ力のおかげでもあるだろう。
その中で、著者はセルビアが負う悪名の不当性と、クロアチアやNATOの悪辣さ――まあ、どっちもどっちといったところなんだろうが――を、遠慮がちに訴えている。その誠実さと公平性は信頼に足るものだ。
この本を読むことによって、われわれは、しらずしらずに染まっていた一方的なプロパガンタから逃れることができる。もちろんそのことによって私が何かができるというわけではない。けれども、そのことだけでも大きいことである。本書を読んだわれわれはもうストイコビッチに対して、あるいはセルビア人に対して、間違っても「この怪物め!」というような無知に基づく愚劣な言葉は吐かないだろう。日本の中で、そしてサッカーファンの中で、セルビア対する不当な偏見を中和するために果たした本書の役割はきわめて大きいと思う。
もしわが国が他の国々に較べてセルビア人に対する偏見が少しだけでも少ない国であるとしたら、それはおそらくこの著者のおかげだろう。私は本気でそう思う。
それにしても、こういうもろもろの苦しい事柄の中でも人は生きていかなければならない。
力づけてくれるものの一つとして、サッカーがあるのだろう。
サッカーをめぐる喜びと悲しみが、その役割を果たしているのだろう。
いや、そこまで断定したらいいすぎか。
サッカーにそんなものを求めてはいけないのかもしれない。
しかし、求めてはいけない、というきまりはないのも確かだ。
私自身は、そこまでサッカーに求めてはいない。
が、もちろん、そうであることを否定はしない。
それが幸せであるかどうか、それはまた別の問題としてある…
むむむ。
なにを言いのかわからなくなってきた。
ですから、これで終わりにしておきます。
当時からテレビも新聞もあまり見ておらず、ユーゴスラビア紛争やコソボ紛争に特に関心があるわけではなかったけれども、セルビアに関する悪評はなんとなく知っていた。民族浄化という名の下に恐ろしい虐殺を行っているらしいということを。
NATOによる爆撃が開始され、それまで加害者であったはずのセルビア人が急に被害者になり、一般的には正義の側と思われていたNATOがどうもそうでもないらしい気配がただよってきて、セルビア人のサッカー選手であるドラガン・ストイコビッチが、母国への爆撃中止を訴えるデモンストレーションをピッチ上で行ったとき、正直、どう反応していいのかわからなかった。
セルビア人=加害者側の民族 ストイコビッチ=サッカーのヒーロー
このふたつをうまく結びつけることができなかった。
といってもそれから急にユーゴ問題に関心が高まったというわけでもなく、ユーゴ紛争はユーゴ紛争であり、サッカーはサッカーであって、前者は後者に較べてあいかわらず興味を引く話題ではなかった。その点はいまでもそうである。ただしこの問題の理解が少しだけでも深まったとしたら、それはイビチャ・オシムとこの本の著書木村元彦氏のおかげである。
本書は、「サッカーを通じて世界を観る」という言葉がピッタリのレポートだ。
著者は、紛争の中心地である旧ユーゴスラビア各地でサッカーとサッカー選手を取材して回る。
憎悪が蔓延しているこの地域で、縁もゆかりもない日本人フリーライターが、場違いにもサッカーのインタビューをして歩こうというのだから、非常に馬鹿馬鹿しいシチュエーションというか、聞かれた方がビックリするだろうし、まかり間違えば相手を怒らせて殺されかねないだろう。実際著者はコソボの武装組織に銃口をつきつけられ地べたに這わされるという目にあっている。
ではこれは無責任な傍観者のレポートなのだろうか。
本人は真剣のつもりでも現地人にとってはた迷惑でしかない、一人よがりのジャーナリストによる勘違いレポートなのだろうか。
そうではない。ここでは、人々の生活の中に息づいているサッカーというポーツを通すことによって、戦争という異常な現象が生活の中にどう入り込んでいるのか、その姿をまざまさと浮かび上がらせている。戦争というものを知らないわれわれにも、サッカーという共通言語を通して、その過酷さと無慈悲さを知らしめる。国際政治の中の大言壮語ではなく、生活のレベルで、戦争のもたらす悲惨な風景を浮かび上がらせている。それは、著者のまっとうな視線と筆力のおかげであるが、サッカーという国際的でありかつ個人に親密なスポーツが持つ力のおかげでもあるだろう。
その中で、著者はセルビアが負う悪名の不当性と、クロアチアやNATOの悪辣さ――まあ、どっちもどっちといったところなんだろうが――を、遠慮がちに訴えている。その誠実さと公平性は信頼に足るものだ。
この本を読むことによって、われわれは、しらずしらずに染まっていた一方的なプロパガンタから逃れることができる。もちろんそのことによって私が何かができるというわけではない。けれども、そのことだけでも大きいことである。本書を読んだわれわれはもうストイコビッチに対して、あるいはセルビア人に対して、間違っても「この怪物め!」というような無知に基づく愚劣な言葉は吐かないだろう。日本の中で、そしてサッカーファンの中で、セルビア対する不当な偏見を中和するために果たした本書の役割はきわめて大きいと思う。
もしわが国が他の国々に較べてセルビア人に対する偏見が少しだけでも少ない国であるとしたら、それはおそらくこの著者のおかげだろう。私は本気でそう思う。
それにしても、こういうもろもろの苦しい事柄の中でも人は生きていかなければならない。
力づけてくれるものの一つとして、サッカーがあるのだろう。
サッカーをめぐる喜びと悲しみが、その役割を果たしているのだろう。
いや、そこまで断定したらいいすぎか。
サッカーにそんなものを求めてはいけないのかもしれない。
しかし、求めてはいけない、というきまりはないのも確かだ。
私自身は、そこまでサッカーに求めてはいない。
が、もちろん、そうであることを否定はしない。
それが幸せであるかどうか、それはまた別の問題としてある…
むむむ。
なにを言いのかわからなくなってきた。
ですから、これで終わりにしておきます。
2008年4月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「オシムの言葉」等、旧ユーゴスラビアとサッカーを知りたいなら間違いなく木村元彦さんの本を読むべきだと私は思う。また、別の作品も読んでみたいと思う。
本書は1999年の「NATOによる空爆は何も解決できないどころか悪でしかなかった」ということを、住人やサッカー選手の立場から教えてくれる貴重な記録だ。
また、よく言われる「政治とスポーツは一緒にしてはいけない」という言葉は無意味とも思えてしまうほど、ストイコビッチをはじめ、アマチュア選手からサッカー協会までに接触して個人単位のリアルな姿を紹介してくれている。
この著を読むことは歴史というものが一人一人の人間の微々たる行動に集合により動かされ、またいかにテレビや新聞の報道がプロパガンダ(オシムがよく使う言葉)なのかということがよくわかる。そして何より当人同士の争いは他人が介入して本当に解決できるものではないということを教えてくれている。
私はこの著を歴史を教える学校の先生に是非読んでもらいたいと思う。もちろん公務員の仕事なので授業の仕方はある程度決まっていると思うが、できれば教科書を読んだ後にこういうことを話してあげて欲しいと思う。でも、今の先生の立場では「進学のため以外の余計なこと」としてPTAと教育委員会から弾圧されてしまうだろう。だが、それ自体が愚かだということを子供に教えてあげるべきだと私は思う。
本書は1999年の「NATOによる空爆は何も解決できないどころか悪でしかなかった」ということを、住人やサッカー選手の立場から教えてくれる貴重な記録だ。
また、よく言われる「政治とスポーツは一緒にしてはいけない」という言葉は無意味とも思えてしまうほど、ストイコビッチをはじめ、アマチュア選手からサッカー協会までに接触して個人単位のリアルな姿を紹介してくれている。
この著を読むことは歴史というものが一人一人の人間の微々たる行動に集合により動かされ、またいかにテレビや新聞の報道がプロパガンダ(オシムがよく使う言葉)なのかということがよくわかる。そして何より当人同士の争いは他人が介入して本当に解決できるものではないということを教えてくれている。
私はこの著を歴史を教える学校の先生に是非読んでもらいたいと思う。もちろん公務員の仕事なので授業の仕方はある程度決まっていると思うが、できれば教科書を読んだ後にこういうことを話してあげて欲しいと思う。でも、今の先生の立場では「進学のため以外の余計なこと」としてPTAと教育委員会から弾圧されてしまうだろう。だが、それ自体が愚かだということを子供に教えてあげるべきだと私は思う。