1995年に無差別テロを起こした宗教団体、オウム真理教を「近代宗教」として把握しようとする総括の
試み。目次と提示された主題から、「えっ!?、こんな分量で、そんなことをあつかうの?」と不安になりました
が、一読して、設定した課題を達成していることに驚嘆です。
近代における宗教の位置づけ、ロマン主義、全体主義、原理主義の概観、一連のオウム真理教の事件
をどのように理解するかまで、非常に読み応えのある内容です。
歴史的事例の具体的把握としても、事件を受けての宗教学からの応答としても、今後は本書を踏まえる
ことが必須な一冊になるかと。
宗教の近代における世俗化の経緯や、各「主義」の概観については、細かいところで異論がないわけでは
ないですが、大枠としては不自然さはない整理ですし、そもそも宗教とは何か、という立脚点には、その「そ
もそも」な部分で、非常に納得できます。近年、脳科学的な知見から「宗教」の基盤を論じる文献が多い
ですが、本書の「そもそも」は、それらに再考を促すものでもあります。
「近代宗教」の一般的傾向と、「オウム真理教」の具体的例が、このように総括されている例を知りません。
また、本書で整理された「啓蒙vsロマン」というバトルは、「近代宗教」以外の様々なフィールドで、今も戦闘
継続中で、それらの錯綜した様相の見通しをつけるにも有用な試論となっています。
この意味で、私たちが生きる現在を反省するためにも、必読の一冊です。
ただ、各「主義」の整理は、並列に並べるには粒度が異なる整理となっていて、ロマン主義の概観が啓蒙主
義との対比から、思想史的な整理として簡便なものとなっている一方で、原理主義の整理は、「主義」の整
理と言うよりは、原理主義的性格が日本のサブカル的な形象にどのように認められるか、という特殊例の経緯
を追ったものとなっており、同じレベルでの「概観」とはいえません。

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オウム真理教の精神史: ロマン主義・全体主義・原理主義 単行本 – 2011/3/1
大田 俊寛
(著)
- 本の長さ294ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2011/3/1
- 寸法13.6 x 2.3 x 19.7 cm
- ISBN-104393323319
- ISBN-13978-4393323311
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登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2011/3/1)
- 発売日 : 2011/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 294ページ
- ISBN-10 : 4393323319
- ISBN-13 : 978-4393323311
- 寸法 : 13.6 x 2.3 x 19.7 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 518,467位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2011年11月13日に日本でレビュー済み
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2011年10月28日に日本でレビュー済み
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まず、久しぶりに面白くて、いい本を読んだというのが読後の印象。
当分、こういう本に出会うことがないだろうなあと、ため息がでるほどおもしろい。
本書は、オウム真理教というテロ行為まで行った教団が成立することになった日本人(先進国ではどこでも当てはまると考えられるが)の精神について、ロマン主義、全体主義、原理主義の系譜を継ぐものとして分析を加え、近代国家としての日本の根本の問題を見事にあぶりだしている。
今まで読んだオウム関係の本の中では、最も良い作品で、教団についても、簡潔かつ必要十分に述べられており、オウムのテロ行為が用意周到に計画されたものではなく、行き当たりばったりの無計画でいいかげんなものだったことまで、本当に良くわかる。
そういう意味では、オウム真理教の内幕までよく理解できてしまう本なのだ。
この本だけは、ぜひ、一読されたい。
当分、こういう本に出会うことがないだろうなあと、ため息がでるほどおもしろい。
本書は、オウム真理教というテロ行為まで行った教団が成立することになった日本人(先進国ではどこでも当てはまると考えられるが)の精神について、ロマン主義、全体主義、原理主義の系譜を継ぐものとして分析を加え、近代国家としての日本の根本の問題を見事にあぶりだしている。
今まで読んだオウム関係の本の中では、最も良い作品で、教団についても、簡潔かつ必要十分に述べられており、オウムのテロ行為が用意周到に計画されたものではなく、行き当たりばったりの無計画でいいかげんなものだったことまで、本当に良くわかる。
そういう意味では、オウム真理教の内幕までよく理解できてしまう本なのだ。
この本だけは、ぜひ、一読されたい。
2020年5月16日に日本でレビュー済み
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オウム真理教が登場するまでの経緯を、タイトル通りロマン主義と全体主義、原理主義の視点からの読み解きは大変読みごたえがあったし、オウム以外でも、今まで見聞きしたオカルト的言説の源流や新興宗教について知ることが出来て面白かった。宗教がカルト化する理由に、納得いった。
だけど、この本では仏教についての記述がほとんどないのが物足りない。一応、オウムは仏教教団を自称していたということなので。たとえば、ヴァジラヤーナ(金剛乗)を理由にした大量殺戮なので、チベット密教とかでは似たような事例がなかったかとかも知りたかった。
世界のどの国でもなく、なぜ日本でオウム事件が起こったのか、という最後の考察が非常にあっさりしていて、ちょっと残念。でも、この著者の本は他のも読んでみたいと思った。
だけど、この本では仏教についての記述がほとんどないのが物足りない。一応、オウムは仏教教団を自称していたということなので。たとえば、ヴァジラヤーナ(金剛乗)を理由にした大量殺戮なので、チベット密教とかでは似たような事例がなかったかとかも知りたかった。
世界のどの国でもなく、なぜ日本でオウム事件が起こったのか、という最後の考察が非常にあっさりしていて、ちょっと残念。でも、この著者の本は他のも読んでみたいと思った。
2015年1月1日に日本でレビュー済み
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オウム真理教の本としてよりも、その背景にある各種宗教・哲学を概観するのに良い本だと思いました。これ一冊で解った気になるのは危険だとは思いますが、私の様な宗教史・哲学史の素人にとっては、非常に参考になりました。
2011年3月28日に日本でレビュー済み
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従来の学問的研究はオウム真理教を適切に論じてこなかった。という挑発的な構えから、オウムという戦後宗教史の大問題が発生してくる思想史的なバックグラウンドを論じた非常に興味深い著作である。著者はキリスト教思想史を専門とする気鋭の宗教学者。いわく、オウムはよくいわれるような1970・80年代日本の精神状況の産物ではなく、キリスト教の「鬼子」である「近代」における「宗教」のもつ構造的な「歪み」から生まれてきた、ある種の必然性すら有する申し子である。
ロマン主義・全体主義・原理主義。オウムはこの三要素から説明可能であると著者は断じる。そして、この三つの系譜に属する思想や運動を近現代史のなかからピックアップし、その変遷を辿りながら、オウム以前におけるオウム的な心性の発露の展開を跡付け、考察していく。込み入った言説たっぷりの対象を手際よく整理し分析する著者の堅実な文章により、オウムの特異性とされるものが実は近現代史にありふれた現象や思惟であることがだんだんとわかってきて意義深い。
本書がオウム論の新境地を切り開く力作であることは間違いない。だが、こうしたスタンスがオウム研究にとって生産的な行き方かといえば、疑問である。少なくとも、あの宗教は何であり、なぜあのような事件が起こってしまったのか、という問題を解明するためには、オウム教団の布教・教化や活動・犯罪の実態と、それを時に面白がり時に非難する社会との交渉を、できる限りの資料収集に基づき考えていく必要があるだろう。著者はオウム事件により躓いた宗教学の再構築を志すというが、本書が試みているようなアームチェア宗教学の視野狭窄こそが、宗教学がオウムの危うさを見抜けなかった元凶のひとつではないだろうか。
ロマン主義・全体主義・原理主義。オウムはこの三要素から説明可能であると著者は断じる。そして、この三つの系譜に属する思想や運動を近現代史のなかからピックアップし、その変遷を辿りながら、オウム以前におけるオウム的な心性の発露の展開を跡付け、考察していく。込み入った言説たっぷりの対象を手際よく整理し分析する著者の堅実な文章により、オウムの特異性とされるものが実は近現代史にありふれた現象や思惟であることがだんだんとわかってきて意義深い。
本書がオウム論の新境地を切り開く力作であることは間違いない。だが、こうしたスタンスがオウム研究にとって生産的な行き方かといえば、疑問である。少なくとも、あの宗教は何であり、なぜあのような事件が起こってしまったのか、という問題を解明するためには、オウム教団の布教・教化や活動・犯罪の実態と、それを時に面白がり時に非難する社会との交渉を、できる限りの資料収集に基づき考えていく必要があるだろう。著者はオウム事件により躓いた宗教学の再構築を志すというが、本書が試みているようなアームチェア宗教学の視野狭窄こそが、宗教学がオウムの危うさを見抜けなかった元凶のひとつではないだろうか。
2011年7月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
学術的な内容で参考になりました。オウム真理教は突然生じたのではなく、しっかりと近現代に思想の源流はあった。そのことが非常に分かりやすくまとめて買いてあります。オウム真理教の教義とか、オウムの歴史とかにはあまりページがさかれていないが、題名の通り、オウムが出てくるまでの精神史が分かりやすく記述してある。しかも、学術書のわりには比較的だが読みやすい。近代思想を理解したい人にもオススメの一冊。オウムについては様々な本があるが、ここまで思想的な面を分析してあるのは珍しい。名著だと思う。
2012年8月4日に日本でレビュー済み
キリスト教史が専門の著者による、宗教学からみたオウムの総括。
実際には本書の3分の2は「オウム前史」に割かれており、その部分が出色の出来。
オウムとは「(1)ロマン主義的で(2)全体主義的で(3)原理主義的なカルトである」という図式を立てた上で、西洋思想史の暗黒面とも言えるこの3つの思想潮流をぎゅっと概説する。
やはり、西洋を学ぼうと思ったら、光の面(デカルト以降の啓蒙的合理的思潮)だけでなく、こうしたダークサイドを知らないといかんなあ、と感じた次第。
先行研究のまとめやオウム事件の概要も完結にまとまっており、類書より明快。
実際には本書の3分の2は「オウム前史」に割かれており、その部分が出色の出来。
オウムとは「(1)ロマン主義的で(2)全体主義的で(3)原理主義的なカルトである」という図式を立てた上で、西洋思想史の暗黒面とも言えるこの3つの思想潮流をぎゅっと概説する。
やはり、西洋を学ぼうと思ったら、光の面(デカルト以降の啓蒙的合理的思潮)だけでなく、こうしたダークサイドを知らないといかんなあ、と感じた次第。
先行研究のまとめやオウム事件の概要も完結にまとまっており、類書より明快。
2011年11月1日に日本でレビュー済み
オウム真理教を産み出した精神史についての内在的な批評を期待したが、全くの期待はずれだった。
特にインドやチベットの精神主義についての理解が完全に欠けている。アジアの宗教、とくに仏教は師から弟子への相承による教えを重視して来たが、同時に極端な暴力や無知を避ける「中庸の思想」を育み、宗教運動に含まれる過激な超社会性(反国家性)をコントロールしてきた(オウムにはこの中庸が決定的に欠落していた)。しかし、本書では、宗教をもっぱらキリスト教と国家の関係のみから一面的に捉えようとするので、アジア的な宗教のあり方そのものに内在する国家と宗教の緊張関係をつかむのに失敗してしまっている。
また、オウム教団が恣意的に引用し、歪曲してきた元の文脈を押さえていないので、著者の論理はたとえば中沢新一氏の『虹の階梯』に説かれたインドやチベットの密教体系そのもの(たとえばグルヨーガ)を、オウム真理教の教義ともろともに否定してしまう。また、本書では『虹の階梯』のなかで強調されていた他者への慈悲や菩提心の強調、「正しい師の選択」の指摘は意図的に無視され、ポワの意味が完全に歪曲され殺人に結びついていったことも踏まえていない。恣意的な引用で自説(中沢氏責任説)を補強し他説を判釈しようとする点で、本書は極めて不完全なものだと感じる。著者はもっと謙虚になるべき。理解ではなく裁決と否定の意思に突き動かされているのだ。宗教学の再構築どころではない。
近代というものにたいして、前近代から近代へ、ポスト近代へという一線的な理解しかもっていないので、訳の分からないもの、理解できないものはなんでも「ポストモダン」「ニューアカデミズム」と断じて終わりにしてしまっている。「ロマン主義」「全体主義」「原理主義」の三つの烙印を濫用して他説を判釈する姿勢は謙虚さからほど遠く、まるで裁判官のようだが、先学についてのジャーナリスティックな言説をそのまま鵜呑みにしているところは致命的なナイーヴさを感じる。グノーシス思想の専門家なら、なぜもっと宗教史学、ヨーガ研究、終末論等の検証を深めないのだろう。本書の立場から、オウムを産み出した本当の闇は決して見えてこない。
特にインドやチベットの精神主義についての理解が完全に欠けている。アジアの宗教、とくに仏教は師から弟子への相承による教えを重視して来たが、同時に極端な暴力や無知を避ける「中庸の思想」を育み、宗教運動に含まれる過激な超社会性(反国家性)をコントロールしてきた(オウムにはこの中庸が決定的に欠落していた)。しかし、本書では、宗教をもっぱらキリスト教と国家の関係のみから一面的に捉えようとするので、アジア的な宗教のあり方そのものに内在する国家と宗教の緊張関係をつかむのに失敗してしまっている。
また、オウム教団が恣意的に引用し、歪曲してきた元の文脈を押さえていないので、著者の論理はたとえば中沢新一氏の『虹の階梯』に説かれたインドやチベットの密教体系そのもの(たとえばグルヨーガ)を、オウム真理教の教義ともろともに否定してしまう。また、本書では『虹の階梯』のなかで強調されていた他者への慈悲や菩提心の強調、「正しい師の選択」の指摘は意図的に無視され、ポワの意味が完全に歪曲され殺人に結びついていったことも踏まえていない。恣意的な引用で自説(中沢氏責任説)を補強し他説を判釈しようとする点で、本書は極めて不完全なものだと感じる。著者はもっと謙虚になるべき。理解ではなく裁決と否定の意思に突き動かされているのだ。宗教学の再構築どころではない。
近代というものにたいして、前近代から近代へ、ポスト近代へという一線的な理解しかもっていないので、訳の分からないもの、理解できないものはなんでも「ポストモダン」「ニューアカデミズム」と断じて終わりにしてしまっている。「ロマン主義」「全体主義」「原理主義」の三つの烙印を濫用して他説を判釈する姿勢は謙虚さからほど遠く、まるで裁判官のようだが、先学についてのジャーナリスティックな言説をそのまま鵜呑みにしているところは致命的なナイーヴさを感じる。グノーシス思想の専門家なら、なぜもっと宗教史学、ヨーガ研究、終末論等の検証を深めないのだろう。本書の立場から、オウムを産み出した本当の闇は決して見えてこない。