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消去: 虐殺を逃れた映画作家が語るクメール・ルージュの記憶と真実 単行本 – 2014/6/30
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人間の消去に立ち向かい、歴史はいかにして「真実」を紡ぐのか。
クメール・ルージュの体験に正面から取り組んだ稀有な文学的表現。
ポル・ポト体制のカンボジア(1975―79)を奇跡的に生き延び、クメール・ルージュの体験を独自の手法で映像化してきた巨匠が、手練れの作家の助けを得て、初めて自らの少年時代の記憶を語る。
1 万数千人を殺害した政治犯収容所元所長の言葉に触発されて甦る、家族や生活のすべてを失った苦難の記憶。リティ少年を襲った信じ難い体験が、淡々とした筆致で語られる。そして息づまる対話のなか、生存者は加害者に問う。「なぜ、あなたのようなインテリがあんなことを?」現代世界でもっとも重要で、もっとも答えるのが困難な問いを、読む者の胸に静かな迫力でつきつける傑作。リティ・パニュ監督最新作『消えた画』の原作。
2013 年度『ELLE』読者賞、2012 年度フランス・テレビジョン・エッセイ賞ほか受賞。
リティ・パニュ監督《消えた画 クメール・ルージュの真実》
2014 年7月5日より、渋谷・ユーロスペースにてロードショー!(全国順次公開)
闇に葬られたクメール・ルージュの悪夢―百数十万人が虐殺されたカンボジアの大地から
作られた人形たちが、光と闇の記憶を語り始める……。
第66 回カンヌ国際映画祭 ある視点部門グランプリ、2013 年度アカデミー賞 外国語映画賞ノミネート
クメール・ルージュの体験に正面から取り組んだ稀有な文学的表現。
ポル・ポト体制のカンボジア(1975―79)を奇跡的に生き延び、クメール・ルージュの体験を独自の手法で映像化してきた巨匠が、手練れの作家の助けを得て、初めて自らの少年時代の記憶を語る。
1 万数千人を殺害した政治犯収容所元所長の言葉に触発されて甦る、家族や生活のすべてを失った苦難の記憶。リティ少年を襲った信じ難い体験が、淡々とした筆致で語られる。そして息づまる対話のなか、生存者は加害者に問う。「なぜ、あなたのようなインテリがあんなことを?」現代世界でもっとも重要で、もっとも答えるのが困難な問いを、読む者の胸に静かな迫力でつきつける傑作。リティ・パニュ監督最新作『消えた画』の原作。
2013 年度『ELLE』読者賞、2012 年度フランス・テレビジョン・エッセイ賞ほか受賞。
リティ・パニュ監督《消えた画 クメール・ルージュの真実》
2014 年7月5日より、渋谷・ユーロスペースにてロードショー!(全国順次公開)
闇に葬られたクメール・ルージュの悪夢―百数十万人が虐殺されたカンボジアの大地から
作られた人形たちが、光と闇の記憶を語り始める……。
第66 回カンヌ国際映画祭 ある視点部門グランプリ、2013 年度アカデミー賞 外国語映画賞ノミネート
- 本の長さ310ページ
- 言語日本語
- 出版社現代企画室
- 発売日2014/6/30
- ISBN-104773814160
- ISBN-13978-4773814163
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商品の説明
著者について
リティ・パニュ
1964年、プノンペン生まれ。1985年、IDHEC(高等映画学院)卒業。代表作に『Les gens de la rizière』(2004年)、『S21、クメール・ルージュの虐殺者たち』(2002年)他。最新作『消えた画』(2013年。カンヌ映画祭「ある視点」部門賞受賞。2014年7月、日本で劇場公開)
クリストフ・バタイユ
1971年生まれ。小説家、編集者。代表作に『安南 愛の王国』(1993年度小説新人賞、ドゥー・マゴ賞受賞)、『Vive l’enfer』(1999年)、『J'envie la félicité des bêtes』(2002年)、『Le Rêve de Machiavel』(2008年)ほか
中村 富美子
パリ第10大学文学部博士課程中退。ジャーナリスト、大学講師。フランス2の番組制作ほか、週刊誌、月刊誌等に執筆。
訳書:ダニエル・ベンサイド『マルクス[取扱説明書]』(湯川順夫、星野秀明と共訳、つげ書房新社、2013年)
舟越 美夏
福岡県生まれ。1989年、上智大学ロシア語学科卒業、共同通信社入社。2001年から02年までプノンペン支局長、04年から06年までハノイ支局長(プノンペン支局長兼務)、06年から08年までマニラ支局長を務める。この間、米軍によるアフガニスタン攻撃、枯れ葉剤・米軍基地問題、女性問題、スマトラ沖地震津波、ミャンマーの民主化運動などを取材。
著書:『人はなぜ人を殺したのか―ポル・ポト派、語る』(毎日新聞社、2013年)
1964年、プノンペン生まれ。1985年、IDHEC(高等映画学院)卒業。代表作に『Les gens de la rizière』(2004年)、『S21、クメール・ルージュの虐殺者たち』(2002年)他。最新作『消えた画』(2013年。カンヌ映画祭「ある視点」部門賞受賞。2014年7月、日本で劇場公開)
クリストフ・バタイユ
1971年生まれ。小説家、編集者。代表作に『安南 愛の王国』(1993年度小説新人賞、ドゥー・マゴ賞受賞)、『Vive l’enfer』(1999年)、『J'envie la félicité des bêtes』(2002年)、『Le Rêve de Machiavel』(2008年)ほか
中村 富美子
パリ第10大学文学部博士課程中退。ジャーナリスト、大学講師。フランス2の番組制作ほか、週刊誌、月刊誌等に執筆。
訳書:ダニエル・ベンサイド『マルクス[取扱説明書]』(湯川順夫、星野秀明と共訳、つげ書房新社、2013年)
舟越 美夏
福岡県生まれ。1989年、上智大学ロシア語学科卒業、共同通信社入社。2001年から02年までプノンペン支局長、04年から06年までハノイ支局長(プノンペン支局長兼務)、06年から08年までマニラ支局長を務める。この間、米軍によるアフガニスタン攻撃、枯れ葉剤・米軍基地問題、女性問題、スマトラ沖地震津波、ミャンマーの民主化運動などを取材。
著書:『人はなぜ人を殺したのか―ポル・ポト派、語る』(毎日新聞社、2013年)
登録情報
- 出版社 : 現代企画室 (2014/6/30)
- 発売日 : 2014/6/30
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 310ページ
- ISBN-10 : 4773814160
- ISBN-13 : 978-4773814163
- Amazon 売れ筋ランキング: - 852,374位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2017年8月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
消去とは、自分の生涯を消し去ることであった。しかし、幸運にもタイ国境の難民キャンプで救われ、新しい旅立ちとなった。著者のパニュに、何とかしてプノンヘン都を訪問して、会いたいと思っている。カンボジアを旅する人の必携の書です。
2014年7月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者のリティ・パニュは、ポル・ポト体制のカンボジアにおいて両親や家族を殺されながら、奇跡的に海外に逃れ、渡仏後、映画の道に進み、ドキュメンタリー映画監督となる。本書は、1万数千人を殺害した強制収容所S21の所長ドッチ(カン・ケ・イウ)にインタビューしていく過程のなかで、パニュのなかに甦るクメール・ルージュに支配された時代の自身の体験を、インタビューの様子とともに描いた作品。
2003年にパニュは、元看守と囚人を描いたドキュメンタリー『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』を発表しているが、そこに登場しなかったのがS21の所長でもあったドッチである。元々は、ドッチについて撮るつもりはなかったそうだが、上記の作品に登場していないのが気になっていたこともあり、彼へのインタビューを行う。求めていたのは、「真実」ではなく、「言葉」であり、「ドッチに話してほしい、説明してほしい」というのがパニュが望んでいることである。
多くの証拠を提示しながら、インタビューは続く。時に気持ちを昂らせながら、執拗に質問を重ねる。その回答に自身の思い出が重なる。さらには、ハンナ・アーレントやプリモ・レーヴィらを含めアウシュヴィッツにかかわる様々な事柄にも思いを馳せている。
質問の過程でも分かることだが、ドッチはいわゆる「教養」のある人間と言えよう。数学教師であり、クメール・ルージュの地下活動に関わる前には、大学の「副校長」にまでなっている。だから、パニュの質問に「的確」に回答はしているのだが、一方で「欠落」しているものを感じてしまう。単純に「倫理観」と言ってしまえるものではない。それだけに、クメール・ルージュの「問題」は奥深いのかもしれない。
子ども時代の喜びに満ちた記憶も書かれているだけに、悲惨な時代の記憶は痛ましい。ただ、生き延びたものとして、「知る」ことに重きを置いたその仕事にかける思いの強さが伝わり、書名となっている「消去」という言葉が持つ怖さも理解できる。
「訳者あとがき」によると、ドッチへのインタビューは300時間にも及び、すでに2011年にドキュメンタリーとして発表されている。また、本書は作家であり編集者でもあるクリストフ・バタイユとの共同作業によるものだが、二年間にわたり両者の間を原稿が100回以上行き来した「闘争」によって誕生したそうである。
そして、犠牲者の葬られた土から作られた土人形たちによる映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』の原作でもある。
2003年にパニュは、元看守と囚人を描いたドキュメンタリー『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』を発表しているが、そこに登場しなかったのがS21の所長でもあったドッチである。元々は、ドッチについて撮るつもりはなかったそうだが、上記の作品に登場していないのが気になっていたこともあり、彼へのインタビューを行う。求めていたのは、「真実」ではなく、「言葉」であり、「ドッチに話してほしい、説明してほしい」というのがパニュが望んでいることである。
多くの証拠を提示しながら、インタビューは続く。時に気持ちを昂らせながら、執拗に質問を重ねる。その回答に自身の思い出が重なる。さらには、ハンナ・アーレントやプリモ・レーヴィらを含めアウシュヴィッツにかかわる様々な事柄にも思いを馳せている。
質問の過程でも分かることだが、ドッチはいわゆる「教養」のある人間と言えよう。数学教師であり、クメール・ルージュの地下活動に関わる前には、大学の「副校長」にまでなっている。だから、パニュの質問に「的確」に回答はしているのだが、一方で「欠落」しているものを感じてしまう。単純に「倫理観」と言ってしまえるものではない。それだけに、クメール・ルージュの「問題」は奥深いのかもしれない。
子ども時代の喜びに満ちた記憶も書かれているだけに、悲惨な時代の記憶は痛ましい。ただ、生き延びたものとして、「知る」ことに重きを置いたその仕事にかける思いの強さが伝わり、書名となっている「消去」という言葉が持つ怖さも理解できる。
「訳者あとがき」によると、ドッチへのインタビューは300時間にも及び、すでに2011年にドキュメンタリーとして発表されている。また、本書は作家であり編集者でもあるクリストフ・バタイユとの共同作業によるものだが、二年間にわたり両者の間を原稿が100回以上行き来した「闘争」によって誕生したそうである。
そして、犠牲者の葬られた土から作られた土人形たちによる映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』の原作でもある。
2018年5月1日に日本でレビュー済み
クメールルージュ政権下での自身の体験と、映画監督としてポト派幹部との対峙を織り交ぜた、ルポルタージュであり回顧録。読みやすい文章で一気に読破した。ただの体験談に終わらず、冷静な目で自身をも痛めつけた“加害者”に向き合うリティ・パニュ氏の深い洞察力と忍耐力に感銘する。
2016年12月18日に日本でレビュー済み
1970年、ジャン・リュック・ゴダールらジガ・ヴェルトフ集団の面々はパレスチナに渡る。そこで撮影・録音された素材は『勝利まで』と題したプロパガンダ映画として完成されるはずだったが諸々の事情で中止される。放置された素材は1975年、集団の解散によりゴダールとアンヌ・マリー・ミエヴィルの共作として発表された『ヒア&ゼア こことよそ』という形で完結する。集団を総括する自己批判の映画の中で、五年前の映像と音声は批判的に検討されたのであった・・・
カンボジア出身で、難民として渡ったフランスで映画作家として人生を再出発させた人物の自伝的書物について語るためのハナシのマクラとしてゴダールについて長々と記したのは、マオイズムのウルトラ原理主義集団であるクメール・ルージュが権力を掌握した時代とは、マオイズムのオワコン化が進行していった時代でもあった、という事実を象徴する事例だからである。クメール・ルージュは滑稽さと紙一重であるがゆえによりグロテスクな存在だったのだ。マオイズムの御本家・中華人民共和国においてすら既に破綻していたものをより過剰かつ愚直に実践してしまった心理の背景には、マオイズムへの関心が一際高かった旧宗主国フランスを超克したいという願望(近代の超克!)が潜んでいたのであろうことは、この本を執筆するための原動力となった人物からも推測できる。クメール・ルージュ最悪の暴力装置に君臨していたはずのその人物は、塀の中で留学生時代に身につけたフランス語とその教養の世界に引き籠っている。あの猛烈な排外思想に充ちた「革命」とは何だったのか。2015年のヤマガタ映画祭に出品された新作は20世紀初頭にフランス人が撮影した映像から植民地とその後遺症について思考する作品だったようだ(翌年の東京上映を見逃してしまったのが悔やまれる)。クメール・ルージュにとってもリティにとってもフランスは愛憎半ばする存在なのだろう。この本でリティは政権崩壊直後のノーム・チョムスキーらによるクメール・ルージュ擁護の言説への軽蔑を隠さないが、それと同じようにジャック・プレヴェールの詩への敬意も隠さない。リティは来日時のインタビューで、演技ではなく動作を重視する創作術を語っている。リティは言葉では表現しきれないものを掬い取ることに映画の可能性を見ているのだ。リテイクを重ね幾度も同じ動作を繰り返させることで浮上するものから本質を掬いとろうという方法論に、文化人類学の観点からドキュメンタリー映画に刷新をうながしたジャン・ルーシュの「シネマ・ヴェリテ」が旧植民地出身者に継承された、と見ることも可能だろうが、リティ自身の体験抜きでそこに辿り着いたわけではないことは、この本で記されているクメール・ルージュ時代の言語状況を読めばわかる。オーウェル云う処の二ュー・スピークが乱造される上にそれは一方通行の命令としてのみ使われる。すぐには理解しかねる造語に対する質問は死を意味する。言葉とはあくまで全知全能の「組織(オンカー)」が上から下へ押しつけるための道具であってコミュニケーションの手段ではない。そのような社会では人心はひたすら荒廃するのみである。先に触れた『こことよそ』でミエヴィルは「革命的声明文」をプロンプターの支持で暗誦する少女の映像に対して、彼女自身の内面から発せられる言葉ではなく借り物の言葉を読み上げることが本当に革命的といえるのか?と問うが、このことは、この本の随所に登場する「クメール・ルージュの若い女性」と総称される名前のない女たちにもそのままあてはまる。20世紀とはどういう時代だったのか、を考える上で必読の書、だが今現在の我々が生きる時代はどうか?僕には、クメール・ルージュ的な憎悪のための憎悪が空転し続ける世界認識に激しい既視感をおぼえるのだが。この日本語版もそのような危機感から出されたもののはずである。
カンボジア出身で、難民として渡ったフランスで映画作家として人生を再出発させた人物の自伝的書物について語るためのハナシのマクラとしてゴダールについて長々と記したのは、マオイズムのウルトラ原理主義集団であるクメール・ルージュが権力を掌握した時代とは、マオイズムのオワコン化が進行していった時代でもあった、という事実を象徴する事例だからである。クメール・ルージュは滑稽さと紙一重であるがゆえによりグロテスクな存在だったのだ。マオイズムの御本家・中華人民共和国においてすら既に破綻していたものをより過剰かつ愚直に実践してしまった心理の背景には、マオイズムへの関心が一際高かった旧宗主国フランスを超克したいという願望(近代の超克!)が潜んでいたのであろうことは、この本を執筆するための原動力となった人物からも推測できる。クメール・ルージュ最悪の暴力装置に君臨していたはずのその人物は、塀の中で留学生時代に身につけたフランス語とその教養の世界に引き籠っている。あの猛烈な排外思想に充ちた「革命」とは何だったのか。2015年のヤマガタ映画祭に出品された新作は20世紀初頭にフランス人が撮影した映像から植民地とその後遺症について思考する作品だったようだ(翌年の東京上映を見逃してしまったのが悔やまれる)。クメール・ルージュにとってもリティにとってもフランスは愛憎半ばする存在なのだろう。この本でリティは政権崩壊直後のノーム・チョムスキーらによるクメール・ルージュ擁護の言説への軽蔑を隠さないが、それと同じようにジャック・プレヴェールの詩への敬意も隠さない。リティは来日時のインタビューで、演技ではなく動作を重視する創作術を語っている。リティは言葉では表現しきれないものを掬い取ることに映画の可能性を見ているのだ。リテイクを重ね幾度も同じ動作を繰り返させることで浮上するものから本質を掬いとろうという方法論に、文化人類学の観点からドキュメンタリー映画に刷新をうながしたジャン・ルーシュの「シネマ・ヴェリテ」が旧植民地出身者に継承された、と見ることも可能だろうが、リティ自身の体験抜きでそこに辿り着いたわけではないことは、この本で記されているクメール・ルージュ時代の言語状況を読めばわかる。オーウェル云う処の二ュー・スピークが乱造される上にそれは一方通行の命令としてのみ使われる。すぐには理解しかねる造語に対する質問は死を意味する。言葉とはあくまで全知全能の「組織(オンカー)」が上から下へ押しつけるための道具であってコミュニケーションの手段ではない。そのような社会では人心はひたすら荒廃するのみである。先に触れた『こことよそ』でミエヴィルは「革命的声明文」をプロンプターの支持で暗誦する少女の映像に対して、彼女自身の内面から発せられる言葉ではなく借り物の言葉を読み上げることが本当に革命的といえるのか?と問うが、このことは、この本の随所に登場する「クメール・ルージュの若い女性」と総称される名前のない女たちにもそのままあてはまる。20世紀とはどういう時代だったのか、を考える上で必読の書、だが今現在の我々が生きる時代はどうか?僕には、クメール・ルージュ的な憎悪のための憎悪が空転し続ける世界認識に激しい既視感をおぼえるのだが。この日本語版もそのような危機感から出されたもののはずである。
2014年7月27日に日本でレビュー済み
著者のリティ・パニュは、1964年にカンボジアの首都プノンペンで生まれた。父親がインテリだったため、1975年からカンボジアを支配し始めたポル・ポト率いるクメール・ルージュによる大粛清で筆舌に尽くせぬ苦難を経験した。その過程で両親を亡くし、自らも何回も死に瀕するが幸運もあって何とか生き延び、ベトナム軍との交戦のなか、奇跡的に1979年にタイへの避難に成功し、難民キャンプを経てパリに学んで映画作家となった。その作品はいずれも、百数十万人が虐殺された記憶を克明に辿るもので、最近作『消えた画-クメール・ルージュの真実』では、カンボジアの大地から作られた多数の写実的な土人形で、この記憶を再現するという、ユニークなものである。
本書では、自らの逃避行の克明な記憶の合間に、クメール・ルージュ時代に大虐殺を行ない、裁判が進行中の元収容所長ドッチとの対話が挟まれるという手法が取られている。他人には想像もできない苦難の記憶を蘇らせることが自らの精神的再生の第一歩であるという著者の信念によるものであろう。本書を読むことで、読者は著者の体験のほんの一部を垣間見るとともに、大虐殺の責任者の思考プロセスに付き合うことにもなる。このような本書のユニークな構成は、編集を手伝ったクリストフ・バタイユとの知的な格闘の結果といえる。
本書で、パニュは、「消去」と題された人類稀に見る大虐殺が起こった理由を、抽象的に「理論化」することを一切拒否する。その代わり、映像作家らしく、逃避行の過程での風景や出会った人々、食べ物ともいえない飢えを満たすために口にした物、あるいはドッチの表情や発言の細部にあくまでこだわり、叙述を進めていく。著者の疑問は、「フランスに留学したインテリも多かったクメール・ルージュが、なぜこのような同胞に対する大虐殺を行なったのか?」ということであり、この疑問を何回もドッチに直接問い掛ける。ドッチは、「自分は虐殺を直接行ったわけではなく、収容所の管理を忠実にこなしただけだ」と答え、疑問は最後まで闇の中で終わる。このように、本書は、クメール・ルージュの行った大虐殺の原因に単純な答えを与えるものではない。しかし、理性だけで社会を改革可能だと考える極端な全体主義が、ナチスだけではなく、歴史上繰り返し出現し、大惨事を招きうることを証言している。
本書では、自らの逃避行の克明な記憶の合間に、クメール・ルージュ時代に大虐殺を行ない、裁判が進行中の元収容所長ドッチとの対話が挟まれるという手法が取られている。他人には想像もできない苦難の記憶を蘇らせることが自らの精神的再生の第一歩であるという著者の信念によるものであろう。本書を読むことで、読者は著者の体験のほんの一部を垣間見るとともに、大虐殺の責任者の思考プロセスに付き合うことにもなる。このような本書のユニークな構成は、編集を手伝ったクリストフ・バタイユとの知的な格闘の結果といえる。
本書で、パニュは、「消去」と題された人類稀に見る大虐殺が起こった理由を、抽象的に「理論化」することを一切拒否する。その代わり、映像作家らしく、逃避行の過程での風景や出会った人々、食べ物ともいえない飢えを満たすために口にした物、あるいはドッチの表情や発言の細部にあくまでこだわり、叙述を進めていく。著者の疑問は、「フランスに留学したインテリも多かったクメール・ルージュが、なぜこのような同胞に対する大虐殺を行なったのか?」ということであり、この疑問を何回もドッチに直接問い掛ける。ドッチは、「自分は虐殺を直接行ったわけではなく、収容所の管理を忠実にこなしただけだ」と答え、疑問は最後まで闇の中で終わる。このように、本書は、クメール・ルージュの行った大虐殺の原因に単純な答えを与えるものではない。しかし、理性だけで社会を改革可能だと考える極端な全体主義が、ナチスだけではなく、歴史上繰り返し出現し、大惨事を招きうることを証言している。