本書は、人間原理を擁護する日本随一の著者による、人間原理をとことん突き詰めていった際に得られる帰結を考察した本である。
人間原理は「私によって観測されたこと(観測選択効果)」を組み入れることで行われる説明や確率的推測のことである。
最初の方は、純粋に確率の問題として理解できる観測選択効果の説明をかなり初歩から行い、ギャンブラーの誤謬や疑似問題「私はなぜ私か」の混乱、宇宙の説明などが行われる。このあたりは確率パズルになれている人ならそれほど難しくない。
中盤以降では観測選択効果でよく取り上げられる「終末論法」と、その類似問題である「眠り姫問題」が考察されている。ここが本書のメインともいえる部分だろう。
最後に、人間原理が輪廻を引き込み、そこから言える倫理的な話などがコメントされている。ただ、「VI:輪廻転生」の章は(グルジエフの話を踏まえる必要があるとはいえ)それまでの部分からはやや浮いている内容でもある。
終末論法は「私という観測者は、(観測主体となりうる)人類全体の時間方向分布のおおよそ真ん中らへんにいるはずである(特に時間が早い側の外れ値にはいないはずである)」という観測選択効果の議論と、「近年人類は急激に増えており、私以前に生まれていた人類の人数を私以降の人類の人数の総数が大きく凌駕するのにはそれほど時間はかからない(数百年ほど)」という事実とから、「人類の終末はそれほど遠くはない(1000年以内ぐらい。終末が非常に遠いとすると、自分が人類全体の分布の中で著しく最初の方の時間に偏ったところに生まれたことになり、考えづらい)」と論ずる議論である。
著者は最終的に、この議論の一番生き残りそうな亜種を考え、しかしそれも内部不整合を有していると論じている。すなわち「人類は西暦3000年までしか生きない」という仮説の「3000年」という数字は、私が2000年前後に生まれるという事実の観測後に事後的にデータと合うように値が決められており、適切な観測選択効果の対案の形(独立性を満たす)をしていない(私が西暦4000年に生まれていた場合には、「人類は西暦6000年までしか生きない」のように仮説が修正されてしまう)。
眠り姫問題は、これをさらに簡単化したような問題であり、しかし哲学者の中でも意見が割れているという問題である。
著者の意見に納得するか否かはともかく、ここまで徹底した議論をしている文献は非常に刺激的であり、賛否を問わず検討して自らの論を考えるのに大変有意義な本だと思う。
そのうえで、以下考えたうえでの著者の議論に感じたことを書きたい。
終末論法については、著者のような議論を経る以前に、途中で導入された「文明には技術発展に伴うクリティカルポイントがあり、そこを通過できずに崩壊する(終末を迎える)か、そこを通り抜けたらほぼ永続に近い状況になる」という議論の前提、そして「そのクリティカルポイント付近でしか終末論法は想起されない」という主張が著しく怪しいと思うので、それ以降の議論が必要なのか、何とも言い難い感じを受けた。
著者は「終末論法のような極めて簡単な議論が、最近やっと提唱されたということは、文明が終末を迎えそうだという現代のような状況(現代はクリティカルポイントに近いとしている)で初めて説得力を持ち想起されるものなのだろう」と擁護している。だが、簡単な確率の話だと言っても、そもそも確率論が整備されたのがそれほど昔ではなく(アリストテレスやニュートンは議論できる状況ではなかった)、条件付き確率とベイズ推定が必要となる観測選択効果を議論できるようになるだけ数学的枠組が進歩するのはやっと最近のことである。なので、観測選択に基づく終末論法が出てきたのが最近なのは、著者の言うような理由ではなく、単に数学の進展に歩みを合わせただけと見るべきだろう。
眠り姫問題についてはかなり謎である。確率1/2と確率1/3で議論が分かれている、1回やる場合と繰り返しやる場合とで結果が変わりうる(繰り返しの場合は1/3で決着がついている)と論じられているらしいが、これは相当奇妙だと思う。では例えば2回やる場合、3回やる場合、・・・としていったらどうなるのだろうか。1/2と1/3の間の値をとることはないはずなので、もし1回と繰り返しで結果が変わるのだとしたら、どこかで不連続に1/2から1/3に切り替わるしかないが、それは置きえない(有限と無限は唯一の可能性だが、非常に大きい有限は今回の場合無限と同一視できるので、それも起きない)。そうだとしたら、どうやっても1/3しか答えにならないと思う。
(コインを投げるタイミングを著者は重視しているが、「コインを投げたけど結果は誰も知らない」等々タイミングを曖昧にするバリエーションはいくらでも作れてしまう。またこれも1回と繰り返しで結果が変わってしまう。一貫して1/3が唯一の答えではないかと思う)
後半に書いたように、著者の議論に納得いかない部分もあるが、そこも含めてきちんと考えるとっかかりを与えてくれる非常に面白い本だと思う。

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多宇宙と輪廻転生: 人間原理のパラドクス 単行本 – 2007/12/1
三浦 俊彦
(著)
"「私」のいない宇宙はありえたのか"---- 超能力も輪廻も終末もオカルトも、ドラマ『トリック』も幸福論も多宇宙も。厳密な論理で誤謬をあばき、「人間原理」で錯覚を正し、観測主体(意識)と宇宙とのあいだを解明する。「私とは何か」の誤謬と真相が、ここに詳らかになる。
- 本の長さ378ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日2007/12/1
- ISBN-104791763831
- ISBN-13978-4791763832
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商品の説明
抜粋
★いよいよ「人間原理」の時代がやってきました。
★「人間原理Anthropic Principle」とは、「私たちが今ここにいる」という主観的事実を最重要のデータとして、宇宙の客観的姿を探る科学研究の総称です。言い換えれば、「私たち観測者(知的生命)」を超越した「必然的法則」「美しい対称性」のような究極の摂理で宇宙が作られていることはない、という偶然論の世界観です。
★人間原理の柱をなすのは、多宇宙の実在です。「とにかくたくさんの、ほとんど何でもありの法則や出来事が無雑作にただ成り立っている。その中には、人間のような知的生物が生まれて生き続けられる宇宙も偶然あった。そういう宇宙のうち典型的なのが私たちの宇宙というだけのこと」......そういうシンプルな考えが人間原理です。人間原理からすれば、従来の物理学者がやっていたことは、膨大な多宇宙の中のローカルな近傍でたまたま生じた揺らぎ現象を、あたかも実在全体の普遍法則であるかのように崇めていたということになります。人間原理が物理学者に嫌われるのも当然でしょう。
★ところが最近、風向きが変わってきました。もともと宇宙論に限定されていた『人間原理』が、科学の中で最も尖端的な二つの分野で注目を浴びているのです。
★「人間原理Anthropic Principle」とは、「私たちが今ここにいる」という主観的事実を最重要のデータとして、宇宙の客観的姿を探る科学研究の総称です。言い換えれば、「私たち観測者(知的生命)」を超越した「必然的法則」「美しい対称性」のような究極の摂理で宇宙が作られていることはない、という偶然論の世界観です。
★人間原理の柱をなすのは、多宇宙の実在です。「とにかくたくさんの、ほとんど何でもありの法則や出来事が無雑作にただ成り立っている。その中には、人間のような知的生物が生まれて生き続けられる宇宙も偶然あった。そういう宇宙のうち典型的なのが私たちの宇宙というだけのこと」......そういうシンプルな考えが人間原理です。人間原理からすれば、従来の物理学者がやっていたことは、膨大な多宇宙の中のローカルな近傍でたまたま生じた揺らぎ現象を、あたかも実在全体の普遍法則であるかのように崇めていたということになります。人間原理が物理学者に嫌われるのも当然でしょう。
★ところが最近、風向きが変わってきました。もともと宇宙論に限定されていた『人間原理』が、科学の中で最も尖端的な二つの分野で注目を浴びているのです。
1: 理論物理学、とくに超ひも理論の世界で。(......)
2: 進化生物学の世界で。(......)
★本書は、この人間原理フィールドの中で、「誕生」「死」「眠り」「目覚め」「終末」などに関わる諸問題に焦点を絞りました。自己意識の強弱、覚醒度のグラデーションといった内面的性質が、宇宙の構造研究、実在の解明にどのように関係してくるかといった、主観と客観を繋ぐ根本問題を追究したのです。とくに前半は、哲学者や科学者が実際に犯している論理的誤謬を、いくつかの同型の事例によって示しているので、日常思考の参考にもなるはずです。(「まえがき」より)
著者について
三浦俊彦(みうら・としひこ)
1959年長野県生まれ。東京大学文学部美学芸術学科卒、同大学院比較文学比較文化専門課程修了。和洋女子大学教授
1959年長野県生まれ。東京大学文学部美学芸術学科卒、同大学院比較文学比較文化専門課程修了。和洋女子大学教授
登録情報
- 出版社 : 青土社 (2007/12/1)
- 発売日 : 2007/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 378ページ
- ISBN-10 : 4791763831
- ISBN-13 : 978-4791763832
- Amazon 売れ筋ランキング: - 520,134位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 382位論理学・現象学
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年4月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
想像通りでしたのでしばらく付き合ってまた新しい世界を描いてみるつもり
2013年9月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
哲学者の書物を読む場合は、哲学者が提示した前提を鵜呑みにするのではなく、読者自身が具体的な事例を持ち出して、哲学者の前提を確かめながら読み進む必要がある。それは本書も同じである。
本書を読んで気になることがあった。それは、「もし自然主義的世界観が間違いで、心が物理に併発するので無いとすれば、つまり、心は物理とは別個に独自に発生できるとするならば、・・・以下略・・・」(p.224)という文章である。
「心が物理に併発する」は、(α) <心(の機能) ⊂ 物理(脳神経系の機能)>のように表現できる。その場合、(β) <心(のエネルギー) ⊃ 物理(脳神経系のエネルギー)>や (γ) <心 = 物理(脳神経系)>の場合も想定すべきなのに、「心は物理とは別個に独自に発生できる」という (δ) <心(という超越的実体) ≠ 物理(脳神経系)>の場合だけを想定するのは片手落ちと感じたからである。
これは、SIA(Self-Indication Assumption)とかSSA(Self-Sampling Assumption)という仮説(p.111)に無理矢理当て嵌めたからだと類推する。
***
心を適切に場合分けして論じたのは、ブッダ釈尊である。
ここでは、パーリ仏典と漢訳雑阿含経から、該当部分を引用して解説する。
パーリ仏典中部『根本五十経篇2』(片山一良訳)第44「小有明経」p.344の説示によれば、自我は次の四つに分類される。ただし、パーリ仏典はブッダゴーサ(5世紀)による改変が疑われている。
(1) 五蘊(肉体)は我(霊魂)である
(2) 我(霊魂)を五蘊(肉体)のある(付随する)もの
(3) 五蘊(肉体)が我(霊魂)の中にある ・・・ これは「唯識」に相当する
(4) 我(霊魂)が五蘊(肉体)の中にある
一方、漢訳雑阿含経巻第五(求那跋陀羅訳:大正大蔵No.105)の「仙尼経」によれば、自我(霊魂)は次の三つに分類される。求那跋陀羅(394〜468年)訳の方が原典に近いと思われる。
(a) 我 : [自我(霊魂)は五蘊(=五陰=肉体)と合一] ・・・ これは (1) と同じ
(b) 異我 : [自我(霊魂)は五蘊(=五陰=肉体)の外にある] ・・・ これは (2) と同じ
(c) 相在 : [自我(霊魂)は五蘊(=五陰=肉体)の中にある] ・・・ これは (4) と同じ
なお、上記漢訳経典によれば、(1) ≡ (a) は死んで五蘊(肉体)が消滅する時に我(霊魂)も消滅すると考えるので「断見」であり、(2) ≡ (b) と (4) ≡ (c) は死んで五蘊(肉体)が消滅しても我(霊魂)は継続すると考えるので「常見」である。
ここで、 (4) ≡ (c) が (α) に対応し、 (2) ≡ (b) が (β) に対し、(1) ≡ (a) は (γ) に対応する。釈尊は、 (δ) を論理的必然で生じる場合分けとは考えていない。
***
本書を読んで二つめに気になったことは、「身体無き心(霊体)の存在は否定できるが、心無き身体(ゾンビ)は必ずしも否定できない」(p.225)という文章である。
「身体無き心(霊体)の存在は否定できる」という表現は、(4) ≡ (c) ≡ (α) の場合にだけ言えることである。従って、全ての場合を考慮していない本書の結論は、部分的な考察にとどまっていると判断しなければならない。
最後に、FT(Fine Tuning、p.72)、ST(Scientific Tuning、p.202)やUFT(Ultra Fine Tuning ≡ FT+ST)という概念は古典物理学に立脚した概念である。すでに古典物理学を凌駕し包含する量子力学に基づいた概念(不確定性に起因する確率論)で哲学を論じなければ正しい考察とは言えない。量子力学的な視点に立てば、触媒材料Pt表面で水素分子が解離吸着するのが必然であるように、FTやSTやUFTがなぜ高い確率で生じるのかが理解できるはずである。
本書を読んで気になることがあった。それは、「もし自然主義的世界観が間違いで、心が物理に併発するので無いとすれば、つまり、心は物理とは別個に独自に発生できるとするならば、・・・以下略・・・」(p.224)という文章である。
「心が物理に併発する」は、(α) <心(の機能) ⊂ 物理(脳神経系の機能)>のように表現できる。その場合、(β) <心(のエネルギー) ⊃ 物理(脳神経系のエネルギー)>や (γ) <心 = 物理(脳神経系)>の場合も想定すべきなのに、「心は物理とは別個に独自に発生できる」という (δ) <心(という超越的実体) ≠ 物理(脳神経系)>の場合だけを想定するのは片手落ちと感じたからである。
これは、SIA(Self-Indication Assumption)とかSSA(Self-Sampling Assumption)という仮説(p.111)に無理矢理当て嵌めたからだと類推する。
***
心を適切に場合分けして論じたのは、ブッダ釈尊である。
ここでは、パーリ仏典と漢訳雑阿含経から、該当部分を引用して解説する。
パーリ仏典中部『根本五十経篇2』(片山一良訳)第44「小有明経」p.344の説示によれば、自我は次の四つに分類される。ただし、パーリ仏典はブッダゴーサ(5世紀)による改変が疑われている。
(1) 五蘊(肉体)は我(霊魂)である
(2) 我(霊魂)を五蘊(肉体)のある(付随する)もの
(3) 五蘊(肉体)が我(霊魂)の中にある ・・・ これは「唯識」に相当する
(4) 我(霊魂)が五蘊(肉体)の中にある
一方、漢訳雑阿含経巻第五(求那跋陀羅訳:大正大蔵No.105)の「仙尼経」によれば、自我(霊魂)は次の三つに分類される。求那跋陀羅(394〜468年)訳の方が原典に近いと思われる。
(a) 我 : [自我(霊魂)は五蘊(=五陰=肉体)と合一] ・・・ これは (1) と同じ
(b) 異我 : [自我(霊魂)は五蘊(=五陰=肉体)の外にある] ・・・ これは (2) と同じ
(c) 相在 : [自我(霊魂)は五蘊(=五陰=肉体)の中にある] ・・・ これは (4) と同じ
なお、上記漢訳経典によれば、(1) ≡ (a) は死んで五蘊(肉体)が消滅する時に我(霊魂)も消滅すると考えるので「断見」であり、(2) ≡ (b) と (4) ≡ (c) は死んで五蘊(肉体)が消滅しても我(霊魂)は継続すると考えるので「常見」である。
ここで、 (4) ≡ (c) が (α) に対応し、 (2) ≡ (b) が (β) に対し、(1) ≡ (a) は (γ) に対応する。釈尊は、 (δ) を論理的必然で生じる場合分けとは考えていない。
***
本書を読んで二つめに気になったことは、「身体無き心(霊体)の存在は否定できるが、心無き身体(ゾンビ)は必ずしも否定できない」(p.225)という文章である。
「身体無き心(霊体)の存在は否定できる」という表現は、(4) ≡ (c) ≡ (α) の場合にだけ言えることである。従って、全ての場合を考慮していない本書の結論は、部分的な考察にとどまっていると判断しなければならない。
最後に、FT(Fine Tuning、p.72)、ST(Scientific Tuning、p.202)やUFT(Ultra Fine Tuning ≡ FT+ST)という概念は古典物理学に立脚した概念である。すでに古典物理学を凌駕し包含する量子力学に基づいた概念(不確定性に起因する確率論)で哲学を論じなければ正しい考察とは言えない。量子力学的な視点に立てば、触媒材料Pt表面で水素分子が解離吸着するのが必然であるように、FTやSTやUFTがなぜ高い確率で生じるのかが理解できるはずである。
2013年5月3日に日本でレビュー済み
95パーセントは理解できませんでした。
今まで読んだ本の中で、ダントツかもしれません。
少なくとも、3本の指に入る難しさだと思いました。
なので、星3つに意味はありません。
良書とかなんとか、私には判断できません(すみません)。
ただし、つまらなくはありません。
苦痛でもありません。
理解できないだけです。
付論も含め、最後まで読んだ感想です。
今まで読んだ本の中で、ダントツかもしれません。
少なくとも、3本の指に入る難しさだと思いました。
なので、星3つに意味はありません。
良書とかなんとか、私には判断できません(すみません)。
ただし、つまらなくはありません。
苦痛でもありません。
理解できないだけです。
付論も含め、最後まで読んだ感想です。
2008年4月10日に日本でレビュー済み
<本書の目的は、自然科学の世界観を論理分析の方法で突き詰めたところに、いかなる人生観が立ち現れるかの検証でした。>(あとがき)
ということで、厳密に論理学的手続きを踏んで自我の問題を考えているのだが(難しかった)、すごーーーく簡単に理路を辿るとこういうことである:
(1) 宇宙の成り立ちに関する問い: 宇宙における様々な定数(光速、重力、プランク定数、、、)がこの宇宙の値を取る理論的必然性は示されていない → それなのになぜ現在のような理想的な=ファインチューンされている宇宙が存在しているのか?
(2) その答え: 宇宙は多数存在する(ひも理論)。しかし、そもそもファインチューンされておらず十分に知的な覚醒の存在しない宇宙ではこの問いが成立しない。
(3) 続き: ファインチューン問題が発生する宇宙では「わたし=自我」の問題も高い確率で同時に発生している。
(4) そして: そのような問題が高い確率で問われるためには自我を冷静に思慮する状態(覚醒度の高い意識状態=観測者切片)が継続的に準拠集団内(各人間の様々な意識状態の集合)に生起する必要がある。
(5) さらに: 一方、その準拠集団においては「私」の周囲の人間がゾンビ(意識を持たない)である可能性を否定できない。
(6) 従い: (4) の必要が満たされるためには、少なくとも今の「私」の中にある観測者切片が時間を超えて継続的に生起する必要がある。こうして輪廻が是認とされる。
あまり自信がないが、まとめるとこんな感じだと思う。
論理学的な手続きはあまり興味がないのだが、最大のミソは、「観測者切片」という概念を持ち出して個人を切片に分解するところにあるようである(強いSSSA=Strong Self Sampling Assumption と呼ぶ)。きのうの「私」と今日の「私」は違う切片であるが、自我であるという点では同じで、それと同様のレベルで前世の自我と今日の自我は同一視できるということであろう。
ちょっと無理がある気もするね。
しかし、最終章の、「輪廻がもたらす倫理的帰結」のところはおもしろい。そこまでがまんして読んだ甲斐はあった。
ということで、厳密に論理学的手続きを踏んで自我の問題を考えているのだが(難しかった)、すごーーーく簡単に理路を辿るとこういうことである:
(1) 宇宙の成り立ちに関する問い: 宇宙における様々な定数(光速、重力、プランク定数、、、)がこの宇宙の値を取る理論的必然性は示されていない → それなのになぜ現在のような理想的な=ファインチューンされている宇宙が存在しているのか?
(2) その答え: 宇宙は多数存在する(ひも理論)。しかし、そもそもファインチューンされておらず十分に知的な覚醒の存在しない宇宙ではこの問いが成立しない。
(3) 続き: ファインチューン問題が発生する宇宙では「わたし=自我」の問題も高い確率で同時に発生している。
(4) そして: そのような問題が高い確率で問われるためには自我を冷静に思慮する状態(覚醒度の高い意識状態=観測者切片)が継続的に準拠集団内(各人間の様々な意識状態の集合)に生起する必要がある。
(5) さらに: 一方、その準拠集団においては「私」の周囲の人間がゾンビ(意識を持たない)である可能性を否定できない。
(6) 従い: (4) の必要が満たされるためには、少なくとも今の「私」の中にある観測者切片が時間を超えて継続的に生起する必要がある。こうして輪廻が是認とされる。
あまり自信がないが、まとめるとこんな感じだと思う。
論理学的な手続きはあまり興味がないのだが、最大のミソは、「観測者切片」という概念を持ち出して個人を切片に分解するところにあるようである(強いSSSA=Strong Self Sampling Assumption と呼ぶ)。きのうの「私」と今日の「私」は違う切片であるが、自我であるという点では同じで、それと同様のレベルで前世の自我と今日の自我は同一視できるということであろう。
ちょっと無理がある気もするね。
しかし、最終章の、「輪廻がもたらす倫理的帰結」のところはおもしろい。そこまでがまんして読んだ甲斐はあった。