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「日本国憲法」廃棄論: まがいものでない立憲君主制のために 単行本 – 2013/3/14
兵頭二十八
(著)
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国際法破りと知りながらマッカーサーが強制した「日本国憲法」。そこには日本から自衛権すら奪おうとする明確な意図があった。その発想の根源となった十九世紀の「世界単一政府」構想から始めて憲法制定過程を詳述。自由と安全の観点から廃憲を説き、近代精神に満ちた「五箇条の御誓文」にもとづく新憲法をつくり、「立憲君主制」を取り戻すべきであると主張した画期的な憲法論!
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社草思社
- 発売日2013/3/14
- ISBN-104794219652
- ISBN-13978-4794219657
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商品の説明
出版社からのコメント
著者からのメッセージ もし1946年から通用している今の「マッカーサー憲法」が、わが国の唯一の有権的な憲法典なのであるとしたならば、日本は立憲君主制の国家ではなく、共和国だということになります。なぜなら「マッカーサー憲法」の「前文」には、「ここに主権が国民に存することを宣言し」と明言されています。さらに念を入れて「第1条」でも、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と、《主権在民》がしつこく強調されているからです。 けれども多くの国民は、「わが国は明治憲法の施行いらい立憲君主制の国家である。天皇陛下こそ国家元首である」と思っているのではないでしょうか? その通りです。日本国の元首は今上陛下です。しかしそれは、「当用憲法」には一言だって規定されていない、事実上の「国体」ということなのです。法的表現によっては国内的にも国外的にも担保されていません。 この事態は、戦後の日本の安全を、常続的に危険にさらしてきています。 いままでは、国会議員の大半が、「現行憲法は占領軍からむりやりに押し付けられた作文だ。まあ、そんなものとはいささかも関係なく、日本の元首は天皇陛下なのだ」と思いなしてきたので、外敵に対しての日本人同士の結束がしぜんに維持されて、外国勢力による間接侵略工作(いっけん合法的な手続きによって日本の安全と国益を逐次に外国人へ譲渡させる)が、ふせがれてきました。 しかし、「1946マッカーサー偽憲法」こそが正規の日本国の憲法なのだ――と学校やマスコミによって刷り込まれて妄信した戦後世代が、国会議員として多く当選するようになるにつれて、とうとう昨今では、責任の大きな地位にある政治家や公務員や商人による反国家的な行為、すなわち、間接侵略工作への協力が、ずいぶん露骨になってきましたよね。 間接侵略工作は、外国人の傀儡であるところの国賊が領導する独裁政権が誕生することで完了します。いま日本は、その亡国の終末に一歩一歩ちかづいているところなのかもしれません。 立憲君主制の最大のメリットは、独裁政権のような「特権の暴走」をゆるさないところにあります。しからば明治憲法はどうして昭和前期に到って「エリート参謀」たちに特権を与え、「陸海軍統帥部主導の対外戦争」という暴走をゆるしてしまったのでしょうか? 本書は、いままでは無意識的に前提されればなんとかなっていた「天皇を中心とした日本国民の団結」についてあらためて意義を知り、意識的に了解し、「日本は立憲君主制の近代国家である」と明快に言語化した「明治憲法のニュー・バージョン」が必要であることについて、論じたものです。 安倍内閣がやろうとしているように、「偽憲法」の改憲規定を踏もうとすることは、「天皇は君主ではないのだ」と言わされた「1946マック偽憲法」の成立を今日の自由な立場の日本国民がわざわざ意志的に追認することですから、決定的に有害です。わたしたちが選ぶべき道はそのような「改憲」ではありません。 本書は、なぜ「偽憲法」の成立追認が将来の日本人の安全と自由を根本からゆるがしてしまうことになるのか、そしてなぜ「廃憲」こそが日本人を安全にするのか、そのゆえんにつき、歴史をふりかえりつつ詳説します。
著者について
1960年長野市生まれ。1982年~84年、陸上自衛隊勤務。88年~90年、東京工業大学大学院・江藤淳研究室に所属(社会工学専攻修士)。著書に『日本人が知らない軍事学の常識』『北京は太平洋の覇権を握れるか――想定・絶東米中戦争』他。
登録情報
- 出版社 : 草思社 (2013/3/14)
- 発売日 : 2013/3/14
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 256ページ
- ISBN-10 : 4794219652
- ISBN-13 : 978-4794219657
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,064,951位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年1月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今の日本は立憲君主制ではなく共和制であることを教えてくれる本である。憲法は国民の生命財産人権を守る道具であるべきなのに憲法が大切だという馬鹿がいるからそうでなくなっている。そのうえ日本国憲法が死んでいることに気づかない馬鹿が多すぎる。そんな憲法は無効であり破棄すべきものである。ただ安倍晋三内閣が憲法破棄を行うかどうかそれが楽しみではあるが。憲法論議には必要な本でありもっと評価してもいいはずだ。2015年この本を必要としている。
2014年1月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
忠君愛国の臣民必読書です。
護憲派も改憲派も、9条ばかりを問題にしていますが、憲法でもっとも大事なことはそれではありません。我が国の国体、すなわち、立憲君主制であるということ。これを基本に据えた、真の憲法を作るには、まず「マック偽憲法」を廃棄すべきと、著者は主張します。
この本は、憲法制定過程を細かく説明しているだけではなく、その他の情報量も多い意欲作ですが、現実的あるいは法的に廃棄はむずかしいのではないか、やはり改憲が現実的なのではないか、という思いをどうしても拭えないので、☆は4つ。
護憲派も改憲派も、9条ばかりを問題にしていますが、憲法でもっとも大事なことはそれではありません。我が国の国体、すなわち、立憲君主制であるということ。これを基本に据えた、真の憲法を作るには、まず「マック偽憲法」を廃棄すべきと、著者は主張します。
この本は、憲法制定過程を細かく説明しているだけではなく、その他の情報量も多い意欲作ですが、現実的あるいは法的に廃棄はむずかしいのではないか、やはり改憲が現実的なのではないか、という思いをどうしても拭えないので、☆は4つ。
2020年1月10日に日本でレビュー済み
題名は日本国憲法廃棄論ですが、特に無効論に触れるわけでもなく、その無効/廃棄の手続きに紙数を使う訳でもありません。本書では、日米戦がどのように開戦の道のりをたどったのか、また日本国憲法がどのように成立したのかを中心的に説明しております。
また兵頭は、日本は日米戦開始において、パリ不戦条約違反だから侵略戦争をしたのだと、あの手この手で、その理由を強引に引っ張ってきて説明しようとしております。それも本書の隠れテーマとなっております。日本が『侵略戦争』をしたという点もそうですが、ほとんどが兵頭の”思い込み”の憶測的な文章の羅列であり、特に公文書や議事録をもとに説明するのではなく、「~と兵頭は思っております」(229頁)などの表現が多用されております。
以下に、疑問に感じた点を列挙していきたいと思います。そのうえで、本書が読むに値するのか、読者の方におきめいただければと思います。
まず、些細な点ですが、兵頭は感情的な文章をためらいなく記載するという、ちょっと著述家としては考えられない「書き手」です。たとえば、”日本の周りの敵国ども”とか”阿呆ども”(40頁)などの言葉を使用します。
続いて、彼の『侵略戦争』に関する説明ですが、かの極東裁判でもパリ不戦条約違反などとは言われなかったように、国際社会では誰もが”パリ不戦条約”を掲げて、互いの戦争を侵略だなんだという事実がそもそもありません。それは、パリ不戦条約は自衛戦争は否定しておらず、どの国も自分の戦争は”侵略戦争”などと言うはずがないからです。ですので、なぜ兵頭がことさらパリ不戦条約を取り上げて、日本は侵略戦争をしたのだと決めつけるのかがよく分からないです。
兵頭の国際法上の自衛権の理解がそもそも適当ではなく、その点について語る部分がほとんど見られません。断片的な記載を確認していくと、「米軍から攻撃を受けていないのに、こっちからだまし討ち同然の奇襲をしかけよう」(98頁)、「あっけらかんとした侵略」(101頁)、「ローズヴェルトは『日本政府は偽りの声明や平和維持の希望を表明して、米国を念入りに欺こうとした』と非難しましたが、これについて日本の東條首相は、あとから何の反論も加えていない。反論しようもなかったでしょう。『まさにそのとおりですけど』と、大本営や外務省の誰もが思っていたはずです。」(119頁)
ここにもすでに表現があるのですが、「~と思っていたはずです」という表現の多様です。東條首相が法廷でそのように答えた議事録が残っているのであればともかく、兵頭は自分で手前勝手に関係者の『思惑』を『作り上げ』て自分の主張を補強(?)しようとするのです。こういう文章はほんとうによく出てきます。極めつけは、天皇の人間宣言の作文はすべてGHQが作ったものであるのに、そこに勝手に天皇や政府側の主体性を見出している点です。
そのGHQの作った人間宣言に、たまたま自分が気に言っている”五か条の御誓文”が記載されており、教育勅語は出てこなかったんですね。そこに目を付け、昭和天皇は教育勅語を否定したかったのだと、「(兵頭は)ひそかに拝察する者です。」(187頁)と。
昭和天皇が自分で書いたわけではないのに、なぜこんなことが言えるのでしょうか??ともかくこういった文章のオンパレードであります。
話しは戻りますが、兵頭の自衛権理解ですが、たぶん彼は国連憲章第51条に記載されている自衛権を、より制限的に解釈して理解しているのだと思います。その解釈の仕方が日本の言論空間では支配的なので(諸外国ではもっと柔軟に理解されています)、兵頭もそのように理解しているのだと思います。自衛権行使対象となる、その先行行為の範囲をどのように考えているのか、などといった具体的で専門的な自衛権の言及はまったくありません。
ですから、パリ不戦条約では自衛を認められていて、その自衛権行使対象となる、先行行為の範囲はきわめて曖昧であり、そこには自国民の生命・安全、経済的独立なども含まれているということを兵頭はまるで知らないんです。「どっちが先に撃ったのか?」という、その点のみを判断の基準とした、きわめて素人的な判断の仕方です。
当時、日本は最後まで米国と外交交渉をしており、米国は石油や屑鉄などの産業の生命線と言えるものを禁輸し、日本に何千万人の失業者、または内乱・暴動が起きてもおかしくないような、とてもパリ不戦条約第2条で定められている平和的手段での交渉などしておりませんでした。そして、それを止めて欲しければ、全ての対外領土を放棄しろと迫る。立場を入れ替えるなら、米国に対し13州の時代に戻れ、というようなことを主張する。これではさすがに呑めない。
すなわち、兵頭の表現した「あっけらかんとした侵略」などと米国側ですら考えていなかったのです。日米とも戦争になることは充分に理解しておりました。にもかかわらず、マッカーサーは日本の41年の奇襲攻撃に驚いた(196頁)、みたいな記載もしております。マッカーサーではなく、兵頭の理解の仕方に『読者』が驚きました。驚いたのはマッカーサーではなく、読者でしょう。
ポツダム宣言という国際条約の解釈もいい加減ですし、憲法成立過程の話(これが本書の中心です)も読めたものではありません。あげればきりがないので、この辺で筆を置きたいと思います。最後に、兵頭のような戦後教育を受けた戦後世代にはどうしても理解できなかったところがあるみたいなので、その点を指摘しておきます。
それは227頁で、「幣原ら日本政府は天皇制を守るために、その天皇制をなくさないために、米国からさんざん脅しを受けて、あのような押し付け憲法を呑むしかなかった」のだという記述です。これは一面的な見方で、当時の日本人はほんとうに心から天皇を崇拝しており、米国は日本人をそういった狂信者の集まりと占領統治中も非常に恐れていました。
ですので、天皇を処罰すれば、必ず日本人は怒り狂い、実際に占領統治をしている米軍が何十万も殺される危険がある。
だからこそ、ポツダム宣言と言う条件付き降伏を日本に要求したのです。ですから、米国にはそもそも天皇を戦犯にし、皇室を抹殺する意思は当初からあまりなかった。それを駆け引きに使うことはあっても。戦後世代の兵頭にはしかたないかもしれませんが、現在と昔では、天皇に対する日本国民の尊崇の気持ちがまったく違います。これはあの時代に生きたものでしか分からないので、どうしてもそうなるかと思います。
兵頭をかばいたいわけではありませんが、その点の理解不足は仕方がない。しかし、それ以外の点はまったく兵頭の思いこみや憶測、国際条約や自衛権に対する理解不足に尽きると思います。なので、☆1つしかつけられません(了)。
また兵頭は、日本は日米戦開始において、パリ不戦条約違反だから侵略戦争をしたのだと、あの手この手で、その理由を強引に引っ張ってきて説明しようとしております。それも本書の隠れテーマとなっております。日本が『侵略戦争』をしたという点もそうですが、ほとんどが兵頭の”思い込み”の憶測的な文章の羅列であり、特に公文書や議事録をもとに説明するのではなく、「~と兵頭は思っております」(229頁)などの表現が多用されております。
以下に、疑問に感じた点を列挙していきたいと思います。そのうえで、本書が読むに値するのか、読者の方におきめいただければと思います。
まず、些細な点ですが、兵頭は感情的な文章をためらいなく記載するという、ちょっと著述家としては考えられない「書き手」です。たとえば、”日本の周りの敵国ども”とか”阿呆ども”(40頁)などの言葉を使用します。
続いて、彼の『侵略戦争』に関する説明ですが、かの極東裁判でもパリ不戦条約違反などとは言われなかったように、国際社会では誰もが”パリ不戦条約”を掲げて、互いの戦争を侵略だなんだという事実がそもそもありません。それは、パリ不戦条約は自衛戦争は否定しておらず、どの国も自分の戦争は”侵略戦争”などと言うはずがないからです。ですので、なぜ兵頭がことさらパリ不戦条約を取り上げて、日本は侵略戦争をしたのだと決めつけるのかがよく分からないです。
兵頭の国際法上の自衛権の理解がそもそも適当ではなく、その点について語る部分がほとんど見られません。断片的な記載を確認していくと、「米軍から攻撃を受けていないのに、こっちからだまし討ち同然の奇襲をしかけよう」(98頁)、「あっけらかんとした侵略」(101頁)、「ローズヴェルトは『日本政府は偽りの声明や平和維持の希望を表明して、米国を念入りに欺こうとした』と非難しましたが、これについて日本の東條首相は、あとから何の反論も加えていない。反論しようもなかったでしょう。『まさにそのとおりですけど』と、大本営や外務省の誰もが思っていたはずです。」(119頁)
ここにもすでに表現があるのですが、「~と思っていたはずです」という表現の多様です。東條首相が法廷でそのように答えた議事録が残っているのであればともかく、兵頭は自分で手前勝手に関係者の『思惑』を『作り上げ』て自分の主張を補強(?)しようとするのです。こういう文章はほんとうによく出てきます。極めつけは、天皇の人間宣言の作文はすべてGHQが作ったものであるのに、そこに勝手に天皇や政府側の主体性を見出している点です。
そのGHQの作った人間宣言に、たまたま自分が気に言っている”五か条の御誓文”が記載されており、教育勅語は出てこなかったんですね。そこに目を付け、昭和天皇は教育勅語を否定したかったのだと、「(兵頭は)ひそかに拝察する者です。」(187頁)と。
昭和天皇が自分で書いたわけではないのに、なぜこんなことが言えるのでしょうか??ともかくこういった文章のオンパレードであります。
話しは戻りますが、兵頭の自衛権理解ですが、たぶん彼は国連憲章第51条に記載されている自衛権を、より制限的に解釈して理解しているのだと思います。その解釈の仕方が日本の言論空間では支配的なので(諸外国ではもっと柔軟に理解されています)、兵頭もそのように理解しているのだと思います。自衛権行使対象となる、その先行行為の範囲をどのように考えているのか、などといった具体的で専門的な自衛権の言及はまったくありません。
ですから、パリ不戦条約では自衛を認められていて、その自衛権行使対象となる、先行行為の範囲はきわめて曖昧であり、そこには自国民の生命・安全、経済的独立なども含まれているということを兵頭はまるで知らないんです。「どっちが先に撃ったのか?」という、その点のみを判断の基準とした、きわめて素人的な判断の仕方です。
当時、日本は最後まで米国と外交交渉をしており、米国は石油や屑鉄などの産業の生命線と言えるものを禁輸し、日本に何千万人の失業者、または内乱・暴動が起きてもおかしくないような、とてもパリ不戦条約第2条で定められている平和的手段での交渉などしておりませんでした。そして、それを止めて欲しければ、全ての対外領土を放棄しろと迫る。立場を入れ替えるなら、米国に対し13州の時代に戻れ、というようなことを主張する。これではさすがに呑めない。
すなわち、兵頭の表現した「あっけらかんとした侵略」などと米国側ですら考えていなかったのです。日米とも戦争になることは充分に理解しておりました。にもかかわらず、マッカーサーは日本の41年の奇襲攻撃に驚いた(196頁)、みたいな記載もしております。マッカーサーではなく、兵頭の理解の仕方に『読者』が驚きました。驚いたのはマッカーサーではなく、読者でしょう。
ポツダム宣言という国際条約の解釈もいい加減ですし、憲法成立過程の話(これが本書の中心です)も読めたものではありません。あげればきりがないので、この辺で筆を置きたいと思います。最後に、兵頭のような戦後教育を受けた戦後世代にはどうしても理解できなかったところがあるみたいなので、その点を指摘しておきます。
それは227頁で、「幣原ら日本政府は天皇制を守るために、その天皇制をなくさないために、米国からさんざん脅しを受けて、あのような押し付け憲法を呑むしかなかった」のだという記述です。これは一面的な見方で、当時の日本人はほんとうに心から天皇を崇拝しており、米国は日本人をそういった狂信者の集まりと占領統治中も非常に恐れていました。
ですので、天皇を処罰すれば、必ず日本人は怒り狂い、実際に占領統治をしている米軍が何十万も殺される危険がある。
だからこそ、ポツダム宣言と言う条件付き降伏を日本に要求したのです。ですから、米国にはそもそも天皇を戦犯にし、皇室を抹殺する意思は当初からあまりなかった。それを駆け引きに使うことはあっても。戦後世代の兵頭にはしかたないかもしれませんが、現在と昔では、天皇に対する日本国民の尊崇の気持ちがまったく違います。これはあの時代に生きたものでしか分からないので、どうしてもそうなるかと思います。
兵頭をかばいたいわけではありませんが、その点の理解不足は仕方がない。しかし、それ以外の点はまったく兵頭の思いこみや憶測、国際条約や自衛権に対する理解不足に尽きると思います。なので、☆1つしかつけられません(了)。
2013年10月10日に日本でレビュー済み
平生、憲法といば「護憲か、改憲か?」の二つのみで割り切ろうとする論が、マスコミの主流になっていることに、以前から疑問というより空虚さを感じていた。国民の平和や安全、繁栄を目的として、より合目的なものが憲法になればいいと考えているからである。その目的を達するにあたって護憲のほうが良ければ、そのままでいいだろうし、改正が必要なら、変えたほうがいいと比較的シンプルに考えているからだ。
もう一方での素朴な疑問は、ポツダム宣言受諾→武装解除→連合国による占領という歴史的背景のなかでGHQの指令で作られた憲法は、あくまで連合国が日本の占領政策を進める上でのツールのひとつに違いないと考えるのがフツウなのではないかということだ。だとすれば、サンフランシスコ平和条約が締結され、連合国による占領が終わった段階で、本来の賞味期限は切れているのではないのか? という素朴な疑問だ。残念ながら、マスコミでこうした議論はほとんど見られず、9条の改正か、護持か。改正すれば、即徴兵制だの、戦争をする国になってしまうなど、なにやら科学的な思考を超越した論調に辟易せずにおれないでいたからだ。
しかし、この本の中で、著者はその疑問に大いに応えてくれる。
まず、憲法の肝要は、どんな国家であれ、国民の基本的生存権(平和、安全、繁栄、幸福の希求等)を守ることが第一義であり、そのためには占領軍など国民以外の勢力の肝煎りで作られた憲法は、廃棄されるべきである。なぜなら、国民の基本的生存権を守ることに何ら価値を見いだすことの無い外国の肝煎り憲法は、断じて認められるものではなく、改正などという作業自体、外国勢力が日本国の憲法をいつでも作り変えらせることができるという前例を作ることとなり、それは国民の基本的生存権を破壊する元凶となり得る要因だからであると、明快に主張しているのだ。
これらを論ずるにあたり、著者は、ハーグ陸戦条約、パリ不戦条約、占領国間の思惑などを例示しつつ、日本国憲法は、占領国間の戦後外交の思惑の中での政治的妥協の産物に過ぎないことを明示している。また、面白いところでは、開戦の詔勅とナチス・ドイツの宣戦布告書の違いを挙げ、ドイツでは、あくまでパリ不戦条約を意識し、自らは平和を望み、これこれの多数の努力をしているにもかかわらず、敵方の度重なる挑発行為、テロ行為によりやむを得ず立ち上がるのだと高らかに宣言しているのに対し、日本の開戦詔勅には、たんに自尊自衛のためとあるのみでエクスキューズを明示しなかったことが、両国の占領後の憲法政策の分岐点になったと主張している。ドイツは他国に憲法を押しつけれることは拒否し、基本法というエクスキューズで逃げ切っている。まあ、国際間の治乱興亡の経験差としかいえないが、日本はあまりにも寂しいかぎりと感じた。
補足ながら、レビューを書こうとしていたときに、中国の駐米大使が「日本は米国に良い顔ができれば、他の戦勝国のことなど留意する必要を感じていないようだ。これは敗戦国としてあるまじき行為ではないか」といった内容の話を米国高官に伝えたという。これこそ、まさに、戦勝国の真の姿を露したということではないだろうか。本音を語ってくれた中国には感謝すべきだろう。
著者は、現行憲法を廃棄し、立憲君主制による自由と民主主義を守る憲法を制定しようという。それが近代以降の国民国家のあるべき姿だという。この本を読んで、僕もそうあって欲しいと心から願うようになれた。しかし、心の一方で、憲法をいじるような根気のいる、それでいて本質的な作業を、激しい変化を好まない、わかっていても変えることのできない国民性をもった、この国の人々に出来得るものだろうかという心配が拭えないでもいる。ヨーロッパとはエートスが違いすぎると思うからだ。この本は、エートスまでは踏み込んでいない。エートスを前提にした憲法改正または廃棄ということであれば、同時期に読んだ小室直樹の「憲法とは国民から国家への命令である(日本国憲法原論)」に詳しい。
もう一方での素朴な疑問は、ポツダム宣言受諾→武装解除→連合国による占領という歴史的背景のなかでGHQの指令で作られた憲法は、あくまで連合国が日本の占領政策を進める上でのツールのひとつに違いないと考えるのがフツウなのではないかということだ。だとすれば、サンフランシスコ平和条約が締結され、連合国による占領が終わった段階で、本来の賞味期限は切れているのではないのか? という素朴な疑問だ。残念ながら、マスコミでこうした議論はほとんど見られず、9条の改正か、護持か。改正すれば、即徴兵制だの、戦争をする国になってしまうなど、なにやら科学的な思考を超越した論調に辟易せずにおれないでいたからだ。
しかし、この本の中で、著者はその疑問に大いに応えてくれる。
まず、憲法の肝要は、どんな国家であれ、国民の基本的生存権(平和、安全、繁栄、幸福の希求等)を守ることが第一義であり、そのためには占領軍など国民以外の勢力の肝煎りで作られた憲法は、廃棄されるべきである。なぜなら、国民の基本的生存権を守ることに何ら価値を見いだすことの無い外国の肝煎り憲法は、断じて認められるものではなく、改正などという作業自体、外国勢力が日本国の憲法をいつでも作り変えらせることができるという前例を作ることとなり、それは国民の基本的生存権を破壊する元凶となり得る要因だからであると、明快に主張しているのだ。
これらを論ずるにあたり、著者は、ハーグ陸戦条約、パリ不戦条約、占領国間の思惑などを例示しつつ、日本国憲法は、占領国間の戦後外交の思惑の中での政治的妥協の産物に過ぎないことを明示している。また、面白いところでは、開戦の詔勅とナチス・ドイツの宣戦布告書の違いを挙げ、ドイツでは、あくまでパリ不戦条約を意識し、自らは平和を望み、これこれの多数の努力をしているにもかかわらず、敵方の度重なる挑発行為、テロ行為によりやむを得ず立ち上がるのだと高らかに宣言しているのに対し、日本の開戦詔勅には、たんに自尊自衛のためとあるのみでエクスキューズを明示しなかったことが、両国の占領後の憲法政策の分岐点になったと主張している。ドイツは他国に憲法を押しつけれることは拒否し、基本法というエクスキューズで逃げ切っている。まあ、国際間の治乱興亡の経験差としかいえないが、日本はあまりにも寂しいかぎりと感じた。
補足ながら、レビューを書こうとしていたときに、中国の駐米大使が「日本は米国に良い顔ができれば、他の戦勝国のことなど留意する必要を感じていないようだ。これは敗戦国としてあるまじき行為ではないか」といった内容の話を米国高官に伝えたという。これこそ、まさに、戦勝国の真の姿を露したということではないだろうか。本音を語ってくれた中国には感謝すべきだろう。
著者は、現行憲法を廃棄し、立憲君主制による自由と民主主義を守る憲法を制定しようという。それが近代以降の国民国家のあるべき姿だという。この本を読んで、僕もそうあって欲しいと心から願うようになれた。しかし、心の一方で、憲法をいじるような根気のいる、それでいて本質的な作業を、激しい変化を好まない、わかっていても変えることのできない国民性をもった、この国の人々に出来得るものだろうかという心配が拭えないでもいる。ヨーロッパとはエートスが違いすぎると思うからだ。この本は、エートスまでは踏み込んでいない。エートスを前提にした憲法改正または廃棄ということであれば、同時期に読んだ小室直樹の「憲法とは国民から国家への命令である(日本国憲法原論)」に詳しい。
2013年9月8日に日本でレビュー済み
著者の主張は、外国の軍事占領によって押し付けられた憲法を護憲するのはもちろんのこと、憲法として承認することになる改憲ではなく、廃棄しなければならないとする。なぜなら占領軍に押し付けられた憲法を認めることは、外国が軍事占領によって日本の憲法や国体を変えることができると認識することになるからだとする。日本国民の自由、生命、財産にとってこれほど危険なことはない。チベットやウイグルと同じようにできると認識させることだからである。