つくづく感じるのは、「事件」という現象は社会やそれを構成する個人の一断片である、ということ。
「犯罪は社会全体の責任だ」という言葉を耳にする度、何とも腑に落ちない感覚を持ってしまうのだが、
今回、森氏が題材として取り上げた「麻原彰晃」にしても、
日本社会や日本人の特徴をよく象徴しているし、また上手く物語っていると思う。
読了して、一連のオウム事件が「現在進行形」であることを思い知らされた。
最近、平田容疑者の出頭に伴い、オウム事件の話題がにわかに盛り上がりの兆しを見せている。
私の中では正直、これらの事件が完全に風化していた。「忘れていた」と思っていた。
しかし、本書を読んで、実際は「忘れたがっていた」だけなのかなと、少し反省した。
本書には二つの視点があると思う。
一つは、なぜオウム事件が起きたのか。
当事者である麻原は何を思い目指していたのか、またどういう過程を経て事件が発生したのか。
今一度、整理して実態を明らかにしようとする視点である。
もう一つは、オウム事件を前後して日本社会がどう変化したのか、という視点。
一連の事件が我々に与えた影響を、我々自身がどれだけ気付いているのか。
このままでは、まずい。
だから、この失敗と真面目に向き合おうというわけである。
最も恐ろしいのは、あの事件が何だったのか「誰も知らない」という事態であろう。
先の戦争に関しても、テレビで今だに検証番組が放送されているけれども、
60年経って明確な答えが出たとはとても思えない。
少なくとも、国民的合意は形成されていない。
私に言わせれば、全員の責任である。
軍部もメディアも、そして国民も日本人すべての相互作用で巻き起こった過ちであったと思っている。
オウム事件に関する森氏の考えもこれに似ている。
尊師と弟子の間に介在した「幻想」と「思い込み」が事件を誘発したのである。
「麻原は、側近たちにとっては唯一のマーケットであり、
側近たちは麻原にとってかけがえのないメディアだ」(474ページ)とはその通りだろう。
「周辺と麻原との相互作用。そこに本質があった」のだ(485ページ)。
初期の強制捜査の時点で、麻原はすでに追い込まれていたのではないか。
そう考えると、検察側の主張は単なるこじつけであって、
したがって、麻原にとっての地下鉄サリンは「幕引き」(509ページ)であったとする見方の方がしっくりくる。
とすれば、今後ますます麻原の証言が重要になってくる。
麻原が詐病なのかは私には分からないが、彼に何も語らせないまま事件が収束してしまうならば、
我々はまた同じ失敗を繰り返すことになる。
森氏と立場の異なる人々の主張を知らないから何とも言えないけれど、
本書を読む限り、司法側がどうしてこんなにも結論を急ごうとするのか理解に苦しむ。
しかも、その結論はすでに決まっているのである。
これでは、邪推したくもなる。
国家は何かを隠しているのではないか、と(509〜510ページ)。
国民が無関心のうちに、国家は警察の失態を揉み消そうとしているのではないかと疑ってしまう。
それにしても、相変わらず森達也は冴えていた。
146、280〜281、346ページあたりは、特に教えられる。
人間にとって、目に見えない恐怖というのが最も恐ろしい。
だから、「麻原彰晃」という実在する人間を絶対的な悪の権化として設定したいのである。
そして、その可視化した存在を抹殺できた時、我々の心に真の安寧が訪れる。
こういうシナリオを皆で望んでいるのかもしれない。
やはり、自分で考えることが重要なんですね。。。
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A3 単行本 – 2010/11/26
森 達也
(著)
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なぜ「あの事件」から目をそむけるのか?
「何でもいいから、早く吊るせ!」。それが大半の日本人の本音なのか。真相究明なしに「事件」は葬り去られようとしている。『A』『A2』の作者が、新しい視座で「オウム事件」と「日本人」の本質に迫る!
「何でもいいから、早く吊るせ!」。それが大半の日本人の本音なのか。真相究明なしに「事件」は葬り去られようとしている。『A』『A2』の作者が、新しい視座で「オウム事件」と「日本人」の本質に迫る!
- 本の長さ536ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社インターナショナル
- 発売日2010/11/26
- ISBN-104797671653
- ISBN-13978-4797671650
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登録情報
- 出版社 : 集英社インターナショナル (2010/11/26)
- 発売日 : 2010/11/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 536ページ
- ISBN-10 : 4797671653
- ISBN-13 : 978-4797671650
- Amazon 売れ筋ランキング: - 669,830位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 87,324位ノンフィクション (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2012年1月9日に日本でレビュー済み
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2020年10月27日に日本でレビュー済み
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死刑執行直前に遺骨を誰に渡すか答えたという報道に違和感があり(詐病だったということになるわけで)この本にたどり着きました。一番印象に残ったのは完全に失明したため外部の情報を弟子から口頭でインプットするしかない(虚偽の報告も多く)うえに最終解脱者を公言しているので、既に知っていたふりをするしかないという状況下、被害妄想がつのっていったという説です。読み応えありました。
2013年8月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「A」より今作に至るまでの、著者の一貫したスタンスとして、
1. 純粋に客観的な表現など存在しない。
2. メディアを含めた全ての表現行為は、多かれ少なかれ、製作者の主観に基づいている。
というものがある。
これは正論であるが、同時に極論でもある。
ポピュリズムに染まり切ったメディアと、それを受け取る視聴者側の、メディア・リテラシーの欠如に対する警句。現実が極端へと傾くならば、アンチテーゼもやはりもう一方の極端へと傾斜しなければ用を成さない。故に極論であっても主張の意義はある。
著者は、全てのメディアは情報の恣意的な取捨選択を行っていると主張する。それと同時に、自ら(著者 森達也 自身)の著作にあっても、人が主観を超えた表現など為し得ない以上、(作為、不作為に関わらず)何らかの傾向を伴った情報の取捨選択は行われていると告白する。
それもそれでいい。自著により発せられるメッセージの性質を、前提として示したに過ぎない。
ただし、この種の主観主義が、製作者の客観的事実を求める努力の放棄に繋がるなら話は別だ。これは直ちに著者である森達也氏がその努力を(意識的に)放棄しているという意味ではないが、ある種の緩み"のようなものが見受けられるのは否めない。
まず第一に、ドキュメンタリーにしては個人的な挿話が多い。
第二に、第一に付随する形で個人的な感想、所見、主張等が多く見られる。しかもそれらが、著者自身が信者等に行ったインタビュー結果から、裁判の傍聴記録、さらには他書籍からの引用などと共に全て同一の地平で、シームレスに語られている。
このような個人的文体を成立させ得るのは一種の作家的才能であり、多くの共感者を生む要素を持つ反面、同数かそれ以上の拒否反応を引き起こす可能性も併せ持っている。
ましてや、今作において中心テーマとして取り上げられているのは、あの20世紀日本最大の悪の化身、「麻原彰晃」である。このような怪物と相対するに、なぜ「客観性」という鎧をかなぐり捨て、剥き身の個人で立ち向かおうとしたのか。『A』及び『A2』は映像作品であるが故に、製作者自身の意図はどうであれ、映像という表現手段そのものに一定の客観性が保障されていた。だが今作『A3』は映像作品ではない。写真と絵画の例に同じく、文章表現には偶然性の入り込む余地はない。その表現内容は全て作者の恣意性に委ねられており、だからこそノンフィクション作品は、日時・場所を詳細に記したり、引用文を多用したり、膨大な参考文献を列挙したりする。そのようにして著述の客観性を担保しようとする。
今作『A3』においても、著者自身の手になる一次資料(H25年現在 確定死刑囚となった元オウム幹部や、麻原彰晃と過去に縁のあった者へのインタビュー等)は、一連のオウム事件を精査する上で極めて重要なものばかりである。なぜ、これらを社会に提示するにあたって、「客観的事実」という(いかがわしくはあるが)ドキュメンタリー作品の真実性を容易に担保する装いを身に纏わなかったのか。もしも著者が今作に対し、他の一般的なドキュメンタリー作品と同程度に『客観性』ということに対する注意を払っていたなら、これに対する世間の反応もまた違ったものになったのではないかと思うのである。
などと、ここまで書いて改めて思うことがある。
作為的な客観性などによって、自らの作品価値を世間に担保しようとするような人間が、あの1995年当時の状況で、オウムの内から社会を撮影しようとなど考えるだろうか。結局のところ、この作品は著者 森達也のアイデンティティーにまつわる個人的な物語ではないのか?
善と悪。個人と社会。真実と虚偽。それらすべての二律背反の中心に、麻原彰晃と呼ばれた男がいる。今作『A3』500頁強の情報を吟味してなお、その実像は混沌を深めていくばかりである。
1. 純粋に客観的な表現など存在しない。
2. メディアを含めた全ての表現行為は、多かれ少なかれ、製作者の主観に基づいている。
というものがある。
これは正論であるが、同時に極論でもある。
ポピュリズムに染まり切ったメディアと、それを受け取る視聴者側の、メディア・リテラシーの欠如に対する警句。現実が極端へと傾くならば、アンチテーゼもやはりもう一方の極端へと傾斜しなければ用を成さない。故に極論であっても主張の意義はある。
著者は、全てのメディアは情報の恣意的な取捨選択を行っていると主張する。それと同時に、自ら(著者 森達也 自身)の著作にあっても、人が主観を超えた表現など為し得ない以上、(作為、不作為に関わらず)何らかの傾向を伴った情報の取捨選択は行われていると告白する。
それもそれでいい。自著により発せられるメッセージの性質を、前提として示したに過ぎない。
ただし、この種の主観主義が、製作者の客観的事実を求める努力の放棄に繋がるなら話は別だ。これは直ちに著者である森達也氏がその努力を(意識的に)放棄しているという意味ではないが、ある種の緩み"のようなものが見受けられるのは否めない。
まず第一に、ドキュメンタリーにしては個人的な挿話が多い。
第二に、第一に付随する形で個人的な感想、所見、主張等が多く見られる。しかもそれらが、著者自身が信者等に行ったインタビュー結果から、裁判の傍聴記録、さらには他書籍からの引用などと共に全て同一の地平で、シームレスに語られている。
このような個人的文体を成立させ得るのは一種の作家的才能であり、多くの共感者を生む要素を持つ反面、同数かそれ以上の拒否反応を引き起こす可能性も併せ持っている。
ましてや、今作において中心テーマとして取り上げられているのは、あの20世紀日本最大の悪の化身、「麻原彰晃」である。このような怪物と相対するに、なぜ「客観性」という鎧をかなぐり捨て、剥き身の個人で立ち向かおうとしたのか。『A』及び『A2』は映像作品であるが故に、製作者自身の意図はどうであれ、映像という表現手段そのものに一定の客観性が保障されていた。だが今作『A3』は映像作品ではない。写真と絵画の例に同じく、文章表現には偶然性の入り込む余地はない。その表現内容は全て作者の恣意性に委ねられており、だからこそノンフィクション作品は、日時・場所を詳細に記したり、引用文を多用したり、膨大な参考文献を列挙したりする。そのようにして著述の客観性を担保しようとする。
今作『A3』においても、著者自身の手になる一次資料(H25年現在 確定死刑囚となった元オウム幹部や、麻原彰晃と過去に縁のあった者へのインタビュー等)は、一連のオウム事件を精査する上で極めて重要なものばかりである。なぜ、これらを社会に提示するにあたって、「客観的事実」という(いかがわしくはあるが)ドキュメンタリー作品の真実性を容易に担保する装いを身に纏わなかったのか。もしも著者が今作に対し、他の一般的なドキュメンタリー作品と同程度に『客観性』ということに対する注意を払っていたなら、これに対する世間の反応もまた違ったものになったのではないかと思うのである。
などと、ここまで書いて改めて思うことがある。
作為的な客観性などによって、自らの作品価値を世間に担保しようとするような人間が、あの1995年当時の状況で、オウムの内から社会を撮影しようとなど考えるだろうか。結局のところ、この作品は著者 森達也のアイデンティティーにまつわる個人的な物語ではないのか?
善と悪。個人と社会。真実と虚偽。それらすべての二律背反の中心に、麻原彰晃と呼ばれた男がいる。今作『A3』500頁強の情報を吟味してなお、その実像は混沌を深めていくばかりである。
2019年7月6日に日本でレビュー済み
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いま読まないといけない。
具体的になにがどういけないか、うまく言えない。
しかし、読んで欲しい。
いや、読まないといけない、そう言いたくなる。
麻原彰晃はピック病であると聞いたことがある。脳の前頭葉や側頭葉が委縮する病気で、俺の患者にも何人かいる。麻原の現在の状態がピック病によるものか、それとも詐病なのか、そこに興味があった。そんな動機で読み始めたのだが、すぐに問題はそこじゃないと気づかされた。どうひいき目に見ても、裁判所や検察の対応がおかしい。そして、それを指摘しないマスコミが怖い。
今や、信用がどんどん失墜しているテレビをはじめとするマスコミだが、それでもまだまだ影響力は大きく、他人の人生をぶっ壊すのなんてお手の物だ。
オウム真理教は、多くの人の人生を狂わせた。自発的かどうかの違いはあれど、人生を狂わされたという点では、被害者も信者も同じだ。オウム寄りと言われても仕方がないようなスタンスのこの本を批難する人がいても当然だ。しかし、書かれていることを知らないままというのは、本当に怖い。いかに自分がマスコミの洗脳を受けていたかを思い知る。
思えば、医療訴訟問題だって、マスコミが医師を仮想敵として仕立てた影響が大きい。事故が起これば医療ミスだと騒ぎたて、それが本当は事故なのかミスなのか、それともただの合併症なのか、そんなことにはあまり興味関心を向けない。煽るだけ煽って、医師を悪者にして、当然のように不起訴になっても報道なし。いつだって投げっぱなしだ。
本書はオウム問題が中心ではあるが、そこに描かれるのは現代の歪んだ構図。
手遅れだけど、やり直せる。世の中には、そんなことがあると思う。逆に、手遅れではないけれど、もうやり直すこともできない、ということもあるはずだ。
ならば、いまのこの状況はどっちだろう。
いま、読め。
あなたの中の何かを変えるために。
やり直すために。
具体的になにがどういけないか、うまく言えない。
しかし、読んで欲しい。
いや、読まないといけない、そう言いたくなる。
麻原彰晃はピック病であると聞いたことがある。脳の前頭葉や側頭葉が委縮する病気で、俺の患者にも何人かいる。麻原の現在の状態がピック病によるものか、それとも詐病なのか、そこに興味があった。そんな動機で読み始めたのだが、すぐに問題はそこじゃないと気づかされた。どうひいき目に見ても、裁判所や検察の対応がおかしい。そして、それを指摘しないマスコミが怖い。
今や、信用がどんどん失墜しているテレビをはじめとするマスコミだが、それでもまだまだ影響力は大きく、他人の人生をぶっ壊すのなんてお手の物だ。
オウム真理教は、多くの人の人生を狂わせた。自発的かどうかの違いはあれど、人生を狂わされたという点では、被害者も信者も同じだ。オウム寄りと言われても仕方がないようなスタンスのこの本を批難する人がいても当然だ。しかし、書かれていることを知らないままというのは、本当に怖い。いかに自分がマスコミの洗脳を受けていたかを思い知る。
思えば、医療訴訟問題だって、マスコミが医師を仮想敵として仕立てた影響が大きい。事故が起これば医療ミスだと騒ぎたて、それが本当は事故なのかミスなのか、それともただの合併症なのか、そんなことにはあまり興味関心を向けない。煽るだけ煽って、医師を悪者にして、当然のように不起訴になっても報道なし。いつだって投げっぱなしだ。
本書はオウム問題が中心ではあるが、そこに描かれるのは現代の歪んだ構図。
手遅れだけど、やり直せる。世の中には、そんなことがあると思う。逆に、手遅れではないけれど、もうやり直すこともできない、ということもあるはずだ。
ならば、いまのこの状況はどっちだろう。
いま、読め。
あなたの中の何かを変えるために。
やり直すために。