真筆とされるパウロ書簡を書かれた年代順に4書簡の訳75ページ註460ページ、短い全体序文と解説20ページからなる新しい新約聖書全体の訳と註シリーズ全6巻の第一弾である。註でしめされる口語訳・新共同訳とそのアンチョコである英語訳聖書重訳などによるすさまじいばかりの厚化粧が剥ぎ取られた訳は生々しく迫ってくる迫力がある。膨大な註の部分は、著者の700ページに及ぶ地図も年表も図も一枚もない書き下ろしの「書物としての新約聖書」を読んでいなかったら‘何を議論しているのか?’について行くのは少し辛かったであろう。
2006年出版の「宗教とは何か(上下)」を読んだ時、短いマタイの‘山上の説教’ですら著者自身の翻訳が示されておらず、しかたなくそのへんにころがっている新共同訳などに目を通す、しかしそれは著者の論理展開とは大きくずれた訳であり、それでは‘どこに議論の基盤をおいらよいのか?’という苛立ちが押さえることができなかったが、第一巻が出版されたならばそれもやっと解消されるだろう。 だが、本書の膨大な註を読みながら、著者は、研ぎすまされた厳しい論理で‘正文批判’を展開し‘訳のもとになる著者独自の正文を同定した’はずであるが、その過程が示されてその結果が示されていないので議論についていく上で上記と同じような苛立ちがあった。著者には当然のことであって示す必要のないことでも読者にその当然がない格差は決定的だと思うし、著者の強靭な知性に導かれる新たな知性が今後うまれいく可能性は高いはずだと思う。また‘註の部’で‘これが直訳’と‘だが。。。’という時、‘本文の示された訳’より‘註の部’の‘直訳の直訳’のほうがよい場合が多々あったと思う。いずれにせよ、スピノザのいう‘聖書それ自身と聖書の歴史のみ’が、350年近くを経て、やっとこの日本でも自立したのだという感動がある。全シリーズ全六巻の刊行、そして「新約聖書概論」刊行を待ちきれない思いで待ち望む。
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新約聖書訳と註 (第3巻) 単行本 – 2007/7/1
田川 建三
(翻訳)
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パウロ書簡 その1
- 本の長さ572ページ
- 言語日本語
- 出版社作品社
- 発売日2007/7/1
- ISBN-104861821347
- ISBN-13978-4861821349
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商品の説明
出版社からのコメント
本叢書の特徴
*不要な解釈や護教的読み込みを排して、できる限りギリシャ語原文そのままに日本語に移し替えた。
*既存の訳と異なる場合は、「註」において、どういう理由で異なる訳が生じるのか、そのつど丁寧に記した。
*できる限り多く、正文批判に言及した。また、正文批判の実例も紹介するべく努めた。
*異なった解釈が可能な場合は、それぞれの解釈の長所短所(文法的、語義的、歴史的な妥当性)をすべて
列挙するようにした。
*一つの訳語では原語の意味を正確に表現できない場合は、それぞれの単語本来の意味を丁寧に説明した。
*各文書の書かれた時代的状況、背景に関する最小限の解説を付した。
*固有名詞については最小限の説明を付した。
*不要な解釈や護教的読み込みを排して、できる限りギリシャ語原文そのままに日本語に移し替えた。
*既存の訳と異なる場合は、「註」において、どういう理由で異なる訳が生じるのか、そのつど丁寧に記した。
*できる限り多く、正文批判に言及した。また、正文批判の実例も紹介するべく努めた。
*異なった解釈が可能な場合は、それぞれの解釈の長所短所(文法的、語義的、歴史的な妥当性)をすべて
列挙するようにした。
*一つの訳語では原語の意味を正確に表現できない場合は、それぞれの単語本来の意味を丁寧に説明した。
*各文書の書かれた時代的状況、背景に関する最小限の解説を付した。
*固有名詞については最小限の説明を付した。
抜粋
「新約聖書は、なんのかんのと言っても、人類の歴史上最重要の遺産の一つである。日本語の読者も、それを正確に理解できる日本語訳でお読みになる権利があろうというものだ。
とは言っても、正直な話、新約聖書全体の翻訳をなすにはまず古代ギリシャ語の語学力がしかるべき水準に達していないといけない。私の場合は、その点で、自分の語学力が辛うじて及第点に到達したかな、と思えるようになったのは、六十歳代も半ばになってからである。語学力ばかりは蓄積がものを言う。まして相手は古代の言語であるから、数十年かかって積み上げてきた蓄積がようやくものを言うようになるには、私の遅い歩みでは、六十歳をかなり超えてしまった、ということである。......古代の言語と言っても、それは生きて用いられていた言語である。従って、何か謎解きでもするような感じで、一つ一つひねくって考えてみて、それで現代語に置き換えてみた時に何とかわかったような気がして、ああそうか、そういうことを言っているのか、などとやっているようでは、その生きた感じはとらえられない。ましてや、辞書にのっている訳語を一つ一つ拾ってきて、それを右から左に写して並べたって、訳になるわけがない。原文そのものをすっと読んでみて、何かこう、生きてしゃべっている雰囲気が伝わってくるような、そういう感覚が生じてこないと、どうも語学力とは言えない。そういう感覚が身につくのに、私の遅い足取りでは、六十歳代の半ばになっていた、ということだ。......まだ自分に余命のあるうちに、一人の専門家として担うべき最小限の課題を果さないといけない」----本叢書の序文より
とは言っても、正直な話、新約聖書全体の翻訳をなすにはまず古代ギリシャ語の語学力がしかるべき水準に達していないといけない。私の場合は、その点で、自分の語学力が辛うじて及第点に到達したかな、と思えるようになったのは、六十歳代も半ばになってからである。語学力ばかりは蓄積がものを言う。まして相手は古代の言語であるから、数十年かかって積み上げてきた蓄積がようやくものを言うようになるには、私の遅い歩みでは、六十歳をかなり超えてしまった、ということである。......古代の言語と言っても、それは生きて用いられていた言語である。従って、何か謎解きでもするような感じで、一つ一つひねくって考えてみて、それで現代語に置き換えてみた時に何とかわかったような気がして、ああそうか、そういうことを言っているのか、などとやっているようでは、その生きた感じはとらえられない。ましてや、辞書にのっている訳語を一つ一つ拾ってきて、それを右から左に写して並べたって、訳になるわけがない。原文そのものをすっと読んでみて、何かこう、生きてしゃべっている雰囲気が伝わってくるような、そういう感覚が生じてこないと、どうも語学力とは言えない。そういう感覚が身につくのに、私の遅い足取りでは、六十歳代の半ばになっていた、ということだ。......まだ自分に余命のあるうちに、一人の専門家として担うべき最小限の課題を果さないといけない」----本叢書の序文より
著者について
田川建三(たがわ・けんぞう)
新約聖書学者
1935年東京にて生
新約聖書学者
1935年東京にて生
登録情報
- 出版社 : 作品社 (2007/7/1)
- 発売日 : 2007/7/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 572ページ
- ISBN-10 : 4861821347
- ISBN-13 : 978-4861821349
- Amazon 売れ筋ランキング: - 475,750位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 61位新約聖書
- - 733位キリスト教入門
- - 991位キリスト教一般関連書籍
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年5月13日に日本でレビュー済み
詳細を極める注釈は圧巻であり、世にある聖書の翻訳が様々な読み方のうちの一つである(一つに過ぎない)ということがよくわかる。多様な読み方のあることを知ることでかえって聖書がわかりやすく立体的になるように思える。
パウロや聖書学者や訳者(訳書)への悪口雑言は、100分の一くらいであればピリリと効いただろう。せっかくの鉄火丼が、これではワサビ丼である。
パウロや聖書学者や訳者(訳書)への悪口雑言は、100分の一くらいであればピリリと効いただろう。せっかくの鉄火丼が、これではワサビ丼である。
2008年12月19日に日本でレビュー済み
たいへんよくできた訳文であり、注の部分が特に充実している。他説を批判するのに、もう少し詳しい説明がほしい個所もあるが、バサッと切って捨てるのが田川節という、まあ御愛嬌だろう。これを読まずして、パウロは語れない。
2009年12月23日に日本でレビュー済み
内容的には興味深く、何度か図書館から借りて読みました。
必ずしも田川氏の読みが正しいとは思いませんが、
考える際、いろいろ参考になります。
しかし最近、ぶ厚い本を買うのに抵抗がありまして、
なにせ狭い部屋なもので、もう本の置き場所に困っています。
こういう時代ですし、CD-ROM版など出して頂けるとたいへん
うれしいのですが、無理なのでしょうか…
必ずしも田川氏の読みが正しいとは思いませんが、
考える際、いろいろ参考になります。
しかし最近、ぶ厚い本を買うのに抵抗がありまして、
なにせ狭い部屋なもので、もう本の置き場所に困っています。
こういう時代ですし、CD-ROM版など出して頂けるとたいへん
うれしいのですが、無理なのでしょうか…
2007年8月2日に日本でレビュー済み
まず、良いところから。田川氏らしい切り込み方で、聖書協会「口語訳」「新共同訳」の問題を随所で率直に指摘していることは肯定的に評価します(たとえば、コリント第二書15章の「甦らされた」を原文のとおり受動で訳したことなど)。
しかし、氏の「書物としての新約聖書」もそうですが、あまりに独善的すぎる嫌いのある記述の仕方には強い抵抗感を覚えます。筆者の問題提起はそれなりに学問的な意義を持つものであることは認めます。しかし、それぞれの訳業・それぞれの校訂本文の編纂、そして解釈伝統が存在するのには、それぞれ深い理由がある。そして、それぞれに存在意義がある。それぞれの訳出の仕方・表現の選択にも、それなりの理由付けがある。だが、著者は自分の見解と違うものを全否定する傾向をお持ちの方のようである。しかし、聖書のような古代文献では原著者の意図したところが時代の壁に阻まれてしまい、誰も100パーセントの確証をもって「何が正しいか」など断言できないはずです。なにも「黄色い声」を声高にあげるような物言いをしなくとも、本書を大金払って買うような読者は、冷静な客観的な視点から「聖書」をとらえる見識を備えています。残念ながら、日本語で出ている聖書解説書・概説書には、教派的立場を越えた客観的な学術的スタンスから書かれた信頼できる文献はほとんどありません。ユダヤ教・カトリック・プロテスタント諸派・東方正教会・世俗学者による横断的な取り組みは、英語圏が最も進んでいますので、そのようなものを求められる方は英語の文献を探した方が無難です。
しかし、氏の「書物としての新約聖書」もそうですが、あまりに独善的すぎる嫌いのある記述の仕方には強い抵抗感を覚えます。筆者の問題提起はそれなりに学問的な意義を持つものであることは認めます。しかし、それぞれの訳業・それぞれの校訂本文の編纂、そして解釈伝統が存在するのには、それぞれ深い理由がある。そして、それぞれに存在意義がある。それぞれの訳出の仕方・表現の選択にも、それなりの理由付けがある。だが、著者は自分の見解と違うものを全否定する傾向をお持ちの方のようである。しかし、聖書のような古代文献では原著者の意図したところが時代の壁に阻まれてしまい、誰も100パーセントの確証をもって「何が正しいか」など断言できないはずです。なにも「黄色い声」を声高にあげるような物言いをしなくとも、本書を大金払って買うような読者は、冷静な客観的な視点から「聖書」をとらえる見識を備えています。残念ながら、日本語で出ている聖書解説書・概説書には、教派的立場を越えた客観的な学術的スタンスから書かれた信頼できる文献はほとんどありません。ユダヤ教・カトリック・プロテスタント諸派・東方正教会・世俗学者による横断的な取り組みは、英語圏が最も進んでいますので、そのようなものを求められる方は英語の文献を探した方が無難です。
2008年5月16日に日本でレビュー済み
1テサ, ガラ, 1コリ, 2コリを収録。毒舌を笑い飛ばせるくらいの信仰を持った説教者がきちんとギリシャ語に当たる場合にこそ、この書物の真価を発見できるだろう。個々の単語の訳語を、欽定訳やルターやウルガタの影響(著者は「護教的」な読み込みと言うが)を除去して語義的に元来の意味にこだわって選択した可能な限りの直訳で、そのことを註で詳述。分詞構文など後から修飾して文を続けている構文も、なかなか苦慮して原文に近づけて訳している。そのために日本語としての読みやすさは考えていない、といより、そもそも原文の意味が一つに確定できないならばその曖昧さをそのままに訳出し、訳を一意に決定できない場合に考え得る訳をすべて註において吟味、特に口語訳と新共同訳との比較を中心にその他の訳と相違する理由を、毒舌を絡めながら飽きずに張り切って叙述(しかし新共同訳の「キリストに結ばれて」の頻出にいたってはついに「もうやめてよ!」と絶叫。2コリ12:19)、本文批評(著者は「正文批判」と言う)も原文が確定できなければ断定しないという姿勢で言及、バウアーさえ鵜呑みにせず、パウロの悪文(例えばγαρの多用)や属格趣味(1テサ1:3など)や自意識過剰(例えば1テサ2:18)に辛抱して付き合い、うまく訳せないときは素直に謝る(1テサ3:7、ガラ1:11、1コリ15:34など)。
「口語訳」と「新共同訳」をけちょんけちょんに批判しているのは、立派な翻訳であるからで、「すでにそういうものが存在しているにもかかわらず、敢えてそれと異なる訳を提供するには、・・・それだけの理由がなければならない」からだが、それらの方が優れている場合には真似をしている(例えば1テサ2:5)。なお、これ以外の日本語訳は「水準がまるで違って、とても言及するに価しない」(序文)。
「口語訳」と「新共同訳」をけちょんけちょんに批判しているのは、立派な翻訳であるからで、「すでにそういうものが存在しているにもかかわらず、敢えてそれと異なる訳を提供するには、・・・それだけの理由がなければならない」からだが、それらの方が優れている場合には真似をしている(例えば1テサ2:5)。なお、これ以外の日本語訳は「水準がまるで違って、とても言及するに価しない」(序文)。