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西部邁 最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」 単行本(ソフトカバー) – 2018/5/23
西部邁ゼミナール・最終講義は日本通史!
後進に託す、半世紀余の思想の終着点、全21章。
古代から現代まで、独自の視点で「日本」を語り尽くす。
生前、最後に(2017年6月17日~12月2日)遺された肉声!
「平成とともにグローバリズムは終わる。壮大な歴史の動きが国家をふたたび浮上させた。世界標準なんぞ冗談じゃない、いまこそ日本論だ、と僕は思ったのです」(序章より)
後進に託す、半世紀余の思想の終着点、全21章。
古代から現代まで、独自の視点で「日本」を語り尽くす。
生前、最後に(2017年6月17日~12月2日)遺された肉声!
「平成とともにグローバリズムは終わる。壮大な歴史の動きが国家をふたたび浮上させた。世界標準なんぞ冗談じゃない、いまこそ日本論だ、と僕は思ったのです」(序章より)
- 本の長さ309ページ
- 言語日本語
- 出版社飛鳥新社
- 発売日2018/5/23
- 寸法13.1 x 2.1 x 18.8 cm
- ISBN-104864106053
- ISBN-13978-4864106054
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商品の説明
出版社からのコメント
本書は2017年晩秋、西部先生より東京メトロポリタンテレビ「西部邁ゼミナール 特別企画 日本人とは、そも何者ぞ」(2017年6月17日~12月2日)の書籍化企画として、先生の単行本をこれまで通算15点、刊行してきた弊社をご指名いただき、スタートしました。
古代から現代まで、独自の観点で日本通史を語りおろすという、西部先生も初の野心的な試み、しかも澤村先生、浜崎先生と、子や孫にあたる三世代が一堂に会して、保守すべき日本思想の核心をわかりやすく語る画期的な内容です。
筆を握ることのできない西部先生から、ご自分の語りをどう本にするか、詳細な指示をいただき作業を進めていたところ、先生の早すぎるご逝去の報に接し、残念でなりません。長い思索のゴールに日本論を選んだ先生のご遺志を尊重し、その最後の肉声を発刊いたします。
古代から現代まで、独自の観点で日本通史を語りおろすという、西部先生も初の野心的な試み、しかも澤村先生、浜崎先生と、子や孫にあたる三世代が一堂に会して、保守すべき日本思想の核心をわかりやすく語る画期的な内容です。
筆を握ることのできない西部先生から、ご自分の語りをどう本にするか、詳細な指示をいただき作業を進めていたところ、先生の早すぎるご逝去の報に接し、残念でなりません。長い思索のゴールに日本論を選んだ先生のご遺志を尊重し、その最後の肉声を発刊いたします。
登録情報
- 出版社 : 飛鳥新社 (2018/5/23)
- 発売日 : 2018/5/23
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 309ページ
- ISBN-10 : 4864106053
- ISBN-13 : 978-4864106054
- 寸法 : 13.1 x 2.1 x 18.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 256,050位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,591位日本史一般関連書籍
- カスタマーレビュー:
著者について
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淑徳大学教授。1960年東京生まれ、千葉大学人文学部卒。博士〔文学〕(千葉大学、論文博士)。中央公論社・中央公論新社に勤務したのち現職。2010年に2冊の単著を上梓して活動をはじめる。また本名・横手拓治名義の共著として、アイデア編集部編『現代日本のブックデザイン』、日本出版学会編『パブリッシング・スタディーズ』、出版文化産業振興財団編『JPIC読書アドバイザー養成講座1/本が手に届くまで』(改訂版第4版)がある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年11月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
筆者の遺言として受け止めさせて頂きました?
2018年7月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
世界が激動し「何が主流なのか」「その激流の中で日本人はどう考え生きるべきなのか」をからためて感じせられた「快書」である。
多くの人が読んで自信を新たにして、今日から明日に備えよう!
多くの人が読んで自信を新たにして、今日から明日に備えよう!
2018年5月27日に日本でレビュー済み
本書の題に〈最後の思索〉とあるように、西部邁さんが自裁した直前に語られた日本人論です。西部さんといえば、イギリスのエドマンド・バークなどを参照し、保守主義を説いてきたことが知られています。その反面、具体的な日本の思想を全般的に論じたことは少なく(『日本の保守思想』や『国民の道徳』などがありましたが)、人生の最後に日本思想史を通して語っていることには感慨を覚えます。
細かいところに疑義を呈したい気持ちはありますが、野暮なのでやめておきましょう。ここでは、イギリス流の保守思想を紹介してきた人物が、人生の終わりに日本思想を巡ったことに敬意を示すべきでしょう。
ということで、高評価で終わりたいのですが、ここで問題となるのは応答者の浜崎洋介さんです。『表現者criterion』の編集者の一人になっていますが、創刊号の座談会で、同じく編集者の一人である川端祐一郎さんが、日本人は昔から伝統的に議論の積み重ねができないというようなことを述べたのに対し、浜崎さんは何も反論していないのですよね。本著にたずさわった一人として見るなら、いささか情けないと感じられてしまいます。ちなみに、同じく編集者の柴山桂太さんは反論していました。
また、本書の「まえがき」で浜崎さんが「追記」している箇所は重要です。引用してみましょう。
この「まえがき」を書いた直後に(4月5日)、MXテレビの窪田哲学プロデューサーと、表現者塾・塾頭の青山忠司氏が、「西部邁自殺幇助」の疑いで逮捕されたとのニュースが入ってきた。二人は容疑を認めているとのことである。私自身も思うところが少なくなく、その「けじめ」については、いつか言葉にしなければならないと考えているが、この日本人論の「まえがき」に関しては変更する必要を認めなかった。
早めに「けじめ」をつけてほしいものだと思います。本書で西部さんとの応答を務めたのですから、単なるコウモリ野郎に堕ちきってしまう前に、まともな発言をしてほしいものです。
細かいところに疑義を呈したい気持ちはありますが、野暮なのでやめておきましょう。ここでは、イギリス流の保守思想を紹介してきた人物が、人生の終わりに日本思想を巡ったことに敬意を示すべきでしょう。
ということで、高評価で終わりたいのですが、ここで問題となるのは応答者の浜崎洋介さんです。『表現者criterion』の編集者の一人になっていますが、創刊号の座談会で、同じく編集者の一人である川端祐一郎さんが、日本人は昔から伝統的に議論の積み重ねができないというようなことを述べたのに対し、浜崎さんは何も反論していないのですよね。本著にたずさわった一人として見るなら、いささか情けないと感じられてしまいます。ちなみに、同じく編集者の柴山桂太さんは反論していました。
また、本書の「まえがき」で浜崎さんが「追記」している箇所は重要です。引用してみましょう。
この「まえがき」を書いた直後に(4月5日)、MXテレビの窪田哲学プロデューサーと、表現者塾・塾頭の青山忠司氏が、「西部邁自殺幇助」の疑いで逮捕されたとのニュースが入ってきた。二人は容疑を認めているとのことである。私自身も思うところが少なくなく、その「けじめ」については、いつか言葉にしなければならないと考えているが、この日本人論の「まえがき」に関しては変更する必要を認めなかった。
早めに「けじめ」をつけてほしいものだと思います。本書で西部さんとの応答を務めたのですから、単なるコウモリ野郎に堕ちきってしまう前に、まともな発言をしてほしいものです。
2019年5月16日に日本でレビュー済み
西部邁 澤村修治 浜崎洋介 『日本人とは、そも何者ぞ』
1 生きざまという言葉は気持ち悪い。死にざまが本来の言葉?
日本在住のロマノ・ヴルビッタさんという、自分はファシスタ党の党首であるという方が、こう言っている。
「平家没落について、あれだけ美しい物語を書けた日本人が、なぜ大東亜戦争の敗北について、美しい物語を書けないのか、しないのか。異様な精神の屈折なり腐敗なりが、このたび起こったのではないか」と。
「日本人は没落していくものの「あはれ」を、悲しみとは捉えなかった。昔は生きざまなんてほとんど言わなかった、死にざまです。没落の死にざまに見る人間性の本質について、非常に深く洞察する力があった」と。
死への恐怖感を持つ日本人の表れではないか。今の生しか関心がない。これも会社に買い慣らされた由縁か。
2 スマホで感情をなくして、すぐに忘れる日本人?
「いまや日本人は知識人を先頭にして、屁理屈で平板になっていき、ローラーにかけられたペラペラな存在になった。感情を無くして、みんなスマホを見て、世界の情勢を黙々と見て、すぐ忘れる。これが現状です」と。
テレビで、早口で、あたかも何事もわかったように、機関銃のように話す人を見かける。見ている方もそれが知的だと、思っているようだ。
真似をして、自己啓発本が売れる。
しかし、読んだ内容はあっという間に忘れる。こうして、一年が過ぎ、今年も早くおわったな、で終わる。この繰り返しで死に向かう。
3 言葉を音楽のように話してみては?
「音楽的に心地よいか、というのは、言葉が残されていくために重要です。
音楽的に変な言葉を喋っている国民がいる。一方、英語は、色々な言葉をミックスして成立している。なかなか使い勝手がいいし、音の調子もいい。そして、音楽的に英語を上回るのがフランス語です」と。
何気なく言葉を使うが、相手の言葉を聞いて、ああ、きれいなだ、と思う人とそうでない人がいる。
また、おおよそ、誰かを罵倒している人の言葉は聞き辛い。とても美しいとは思えない。
人間の表情は正直なもので、罵倒している人の顔は悪魔に見える。言葉と表情は比例している。
反対に言えば、表情が美しければ、言葉も美しくなるのではないか。
4 何もしないことができるか?
「道元は、目的と手段の関係から脱する必要がある、と思った。そこで、道元は、「今、ここ」に集中する必要を説く。
「今、ここ」に集中する最も効果的なものが、「座禅」と、掃除洗濯料理などの日常的な作務を見出すことになる。
只管打座はひたすら座禅するだけで、座っているだけではないか、と思われるが、何もしない、ということをするのである」と。
よく考えると、一日で何もしない、というのはできそうで、難しいのではないか。
電車の中で何もしない時は、スマホを見るか、本を読むか。何もしないというのは、世間ではマイナスの評価につながる。
常に何かそわそわしていないと、生きて行けない状況になった。
5 中世の人は一瞬の贅沢をして、あっさりと死ぬのが美徳と考えた?
「南北朝から戦国の世が始まる頃の人間は、死が間近にあった。己の人生の道行きには、生きるか死ぬかのドラマがあった。死の匂いが芬々としている。そういう状況の中で生まれたのが婆佐羅だった。
婆佐羅大名の佐々木道誉は、無茶苦茶の行動をする。宴会では、虎や豹の毛皮を敷き、勝負事をする。最後には豪華な珍しい物も、カネにしたって、「どうでもよい。僕はいらん」とばかり白拍子や猿楽師にやる。自身は手ぶらで帰る。派手ではあるが、暑苦しくない。突き抜けたイキなところがある。
派手な中にある「あっさり、すっきり」が格好よい。相手にもその意味がよく通じる。明日は戦場で死ぬかもしれない二人が、イキなエール交換をする。こういう態度が中世にはあった」と。
この文章を読んで、思ったことは、今、もし、日本がどこかの国と戦争をしていて、特攻隊で明日死ぬとしたら、若い兵士は戦場でスマホを片手に愛のエール交換を行うだろう。あっさり、死ねるか。部隊を逃亡するか、恨みつらみをスマホで述べて、死んでいくのではないか。
そして、格好良い死に方とは何か。すぐに死ぬことがわからないで、一瞬のうちに死ぬ突然死ではないかと、思った。
6 中世の人は死ぬことを当たり前と考えたのか。
「鴨長明は、養和の飢饉で、飢え死にした死体は処理されず、においが大変だったと、方丈記に書いてある。
その中に仁和寺の坊さんは、死体の額に字を書いて仏縁を結ばせた。数えると、4万だったとか、よくも数えられたものだ。鴨長明はそれを淡々と、感情を交えずに記録している。ある種の透徹したニヒリズムです」と。
死体を最初に見ると、びっくりするが、段々と慣れて来るのだろう。そのうちに、獣の死体を扱う様な感覚になるのではなかろうか。
かつての太平洋戦争中も、食べるものがなくなると、戦友の死体を食べた、という話をよく聞く。
7 日本人は天国と地獄の振り分けを信じなかったから、キリスト教は定着しなかったのではないか?
「フランシスコ・ザビエルたちが、現代で言えば、新品のスマートフォンを持ってきたみたいだった。これまでにない教えだと。現代人がスマホにみんな飛びついたように、日本人はすぐ飛びつくだろうと。でも、日本人にしてみれば、もうとっくにいろんな思考実験をやってきたので、似た話じゃないか、となり、蹴飛ばされた」と。
日本人はいろいろな物に関心を持つのは大昔からのようだ。
実験してよければ、取り入れるが、合わないと、捨てる。宗教もやるだけよってみようじゃないかと。
僕自身、そういう「日本人らしさ」は好ましいし、「あの世が、仏が、絶対が、超越が」って形而上を持ち出すヤツがいると、「嘘だろう」と言いたくなる。
「人間、わざわざ死んでもしようがない。死ぬまで生きていようぜ」と。
生きている限り自分の能力いっぱいで、競馬を見たり、木に登ったり、酒をくらったり、俳句を詠んだりして、楽しむというか、時間をやり過ごすというか、いろいろあるでじゃないか。日本人は無常だと言いながら、そうやって、生への執着を表現していった。
8 日本人は美意識で宗教を選ぶ?
坂口安吾の『イノチガケ』によると、殉教者が増えていくと、キリスト教の信仰者は増えていくという。なぜか、殉教者は「かっこいい」からです。死や滅びの美しさを放っていて、みんなを惹き付ける。
それはまずいので、徳川幕府は、「穴つるし」の拷問に変えた。穴に逆さつりにする。血流が下がってきて、顔が真っ赤になって膨れ上がって、醜く死んでいく。
そうやって醜さに追い詰めると、キリスト教に帰依する人が、どんどん少なくなったと。
「醜さを追い詰めると、キリスト教に帰依する人が少なくなった。日本人のキリスト教を受け入れるかどうかは、教義とは関係ない。美意識だった。自然に与えられた死や滅びの事実を、どう潔く引き受けるかといった点で、日本人の美意識は成り立っている」と。
殉教に憧れたのは、特攻隊も同じではないか。日本人は、どこかで人に見られている、と言う意識があると、正義のための死をあっけなくするのではないか。
9 小説とは?
「小説というのは、坪内逍遥が作った言葉ですが、どうして、小説か。
これは、小さな説ということ。
明治はまだ江戸時代を心の中で引きずる。男たるもの、江戸時代なら主君のために命を賭していたが、明治になると、「お国」のためになる。戦争もあるから、男のやることとなる。
しかし、文学者は、男にあるまじき、小説などを書いている。中身を読むと、女性に惚れたとか、振られたとかという話ばかり。男のやるべきことではないと。
だから、近代文学者は、世間の皆さん、小さな説に過ぎませんから許してください、男のくせに女々しい文学をやっています。でも小さな説だから勘弁してください。
小説を英語でいえばノーベルです。新しいという意味。イノベーションinnovationのnovですから。Novelすなわち、新しい説。
ところが、日本では、これを新説と訳さなかった」と。
だから、明治の内村鑑三などは、小説を嫌ったのかもしれにあ。
もし、新説と訳していたら、もっと、日本人は小説を読んでいただろう。なにせ、新しい物が好きな国民だから。
10 もし、現代、刀着用を許されたら?
「初対面の相手にものを言う時の、向こうの緊張感のなさが気になった。武士の時代だったらそうはいかない。武士は刀を持っている。初対面で、無礼の度が過ぎるとグサッとやられる。
だから、武士は絶えず他人との距離感を測って付き合った。刀が距離感を作り出した。モラルも作った。
モラルの語源は「モーレス」で、習慣、習俗の意。英語になってモラル、道徳になった。
刀がある時の習俗は良かった」と。
今、もし、刀を持ってよい風潮になれば、どうなるだろうか。
少し、気に障れば、すぐに、斬ってしまうだろうか。
反対に、言葉を慎重に選び、引き締まった社会になるだろうか。
最初は、死者も多数出るだろうが、そのうちに治まって来る来ると思う。そして、行動も言動も優雅になるのではないか。
反対に、目に見えないネットではもっと、苛酷な言動が増えるかもしれない。
明治四年の散髪令と明治九年の廃刀令で、武士の魂が傷ついた。
姿かたちの変化は大きい。精神性と関係しますから。
普段何気なくしている格好で、知らないうちに自分の精神が形作られている。
自分のあこがれの人の姿を真似ることは、その人に近づくことになるだろう。
11 変わった事を言う人は要注意?
「変化への警戒。自分を変えるのも、社会を変えるのもグラヂュアリズム gradualism、漸進的で行けと。
急進的なことは、たまにあってもいい。目の前にどう見てもひどい人がいたら、ラディカルに殴りかかるかもしれないが、そういうことは滅多にない。
自分勝手に、明日からこうなると、急激な変化を起こそうとする連中には警戒した方がいい」と。
急に変な事を書いたりする著者がいる。常識では考えられないような事を。
例えば、脳が10倍速くなるととか、これを食べれば、百寿者になれるとか。そういう本は本当に警戒した方がいい。
1 生きざまという言葉は気持ち悪い。死にざまが本来の言葉?
日本在住のロマノ・ヴルビッタさんという、自分はファシスタ党の党首であるという方が、こう言っている。
「平家没落について、あれだけ美しい物語を書けた日本人が、なぜ大東亜戦争の敗北について、美しい物語を書けないのか、しないのか。異様な精神の屈折なり腐敗なりが、このたび起こったのではないか」と。
「日本人は没落していくものの「あはれ」を、悲しみとは捉えなかった。昔は生きざまなんてほとんど言わなかった、死にざまです。没落の死にざまに見る人間性の本質について、非常に深く洞察する力があった」と。
死への恐怖感を持つ日本人の表れではないか。今の生しか関心がない。これも会社に買い慣らされた由縁か。
2 スマホで感情をなくして、すぐに忘れる日本人?
「いまや日本人は知識人を先頭にして、屁理屈で平板になっていき、ローラーにかけられたペラペラな存在になった。感情を無くして、みんなスマホを見て、世界の情勢を黙々と見て、すぐ忘れる。これが現状です」と。
テレビで、早口で、あたかも何事もわかったように、機関銃のように話す人を見かける。見ている方もそれが知的だと、思っているようだ。
真似をして、自己啓発本が売れる。
しかし、読んだ内容はあっという間に忘れる。こうして、一年が過ぎ、今年も早くおわったな、で終わる。この繰り返しで死に向かう。
3 言葉を音楽のように話してみては?
「音楽的に心地よいか、というのは、言葉が残されていくために重要です。
音楽的に変な言葉を喋っている国民がいる。一方、英語は、色々な言葉をミックスして成立している。なかなか使い勝手がいいし、音の調子もいい。そして、音楽的に英語を上回るのがフランス語です」と。
何気なく言葉を使うが、相手の言葉を聞いて、ああ、きれいなだ、と思う人とそうでない人がいる。
また、おおよそ、誰かを罵倒している人の言葉は聞き辛い。とても美しいとは思えない。
人間の表情は正直なもので、罵倒している人の顔は悪魔に見える。言葉と表情は比例している。
反対に言えば、表情が美しければ、言葉も美しくなるのではないか。
4 何もしないことができるか?
「道元は、目的と手段の関係から脱する必要がある、と思った。そこで、道元は、「今、ここ」に集中する必要を説く。
「今、ここ」に集中する最も効果的なものが、「座禅」と、掃除洗濯料理などの日常的な作務を見出すことになる。
只管打座はひたすら座禅するだけで、座っているだけではないか、と思われるが、何もしない、ということをするのである」と。
よく考えると、一日で何もしない、というのはできそうで、難しいのではないか。
電車の中で何もしない時は、スマホを見るか、本を読むか。何もしないというのは、世間ではマイナスの評価につながる。
常に何かそわそわしていないと、生きて行けない状況になった。
5 中世の人は一瞬の贅沢をして、あっさりと死ぬのが美徳と考えた?
「南北朝から戦国の世が始まる頃の人間は、死が間近にあった。己の人生の道行きには、生きるか死ぬかのドラマがあった。死の匂いが芬々としている。そういう状況の中で生まれたのが婆佐羅だった。
婆佐羅大名の佐々木道誉は、無茶苦茶の行動をする。宴会では、虎や豹の毛皮を敷き、勝負事をする。最後には豪華な珍しい物も、カネにしたって、「どうでもよい。僕はいらん」とばかり白拍子や猿楽師にやる。自身は手ぶらで帰る。派手ではあるが、暑苦しくない。突き抜けたイキなところがある。
派手な中にある「あっさり、すっきり」が格好よい。相手にもその意味がよく通じる。明日は戦場で死ぬかもしれない二人が、イキなエール交換をする。こういう態度が中世にはあった」と。
この文章を読んで、思ったことは、今、もし、日本がどこかの国と戦争をしていて、特攻隊で明日死ぬとしたら、若い兵士は戦場でスマホを片手に愛のエール交換を行うだろう。あっさり、死ねるか。部隊を逃亡するか、恨みつらみをスマホで述べて、死んでいくのではないか。
そして、格好良い死に方とは何か。すぐに死ぬことがわからないで、一瞬のうちに死ぬ突然死ではないかと、思った。
6 中世の人は死ぬことを当たり前と考えたのか。
「鴨長明は、養和の飢饉で、飢え死にした死体は処理されず、においが大変だったと、方丈記に書いてある。
その中に仁和寺の坊さんは、死体の額に字を書いて仏縁を結ばせた。数えると、4万だったとか、よくも数えられたものだ。鴨長明はそれを淡々と、感情を交えずに記録している。ある種の透徹したニヒリズムです」と。
死体を最初に見ると、びっくりするが、段々と慣れて来るのだろう。そのうちに、獣の死体を扱う様な感覚になるのではなかろうか。
かつての太平洋戦争中も、食べるものがなくなると、戦友の死体を食べた、という話をよく聞く。
7 日本人は天国と地獄の振り分けを信じなかったから、キリスト教は定着しなかったのではないか?
「フランシスコ・ザビエルたちが、現代で言えば、新品のスマートフォンを持ってきたみたいだった。これまでにない教えだと。現代人がスマホにみんな飛びついたように、日本人はすぐ飛びつくだろうと。でも、日本人にしてみれば、もうとっくにいろんな思考実験をやってきたので、似た話じゃないか、となり、蹴飛ばされた」と。
日本人はいろいろな物に関心を持つのは大昔からのようだ。
実験してよければ、取り入れるが、合わないと、捨てる。宗教もやるだけよってみようじゃないかと。
僕自身、そういう「日本人らしさ」は好ましいし、「あの世が、仏が、絶対が、超越が」って形而上を持ち出すヤツがいると、「嘘だろう」と言いたくなる。
「人間、わざわざ死んでもしようがない。死ぬまで生きていようぜ」と。
生きている限り自分の能力いっぱいで、競馬を見たり、木に登ったり、酒をくらったり、俳句を詠んだりして、楽しむというか、時間をやり過ごすというか、いろいろあるでじゃないか。日本人は無常だと言いながら、そうやって、生への執着を表現していった。
8 日本人は美意識で宗教を選ぶ?
坂口安吾の『イノチガケ』によると、殉教者が増えていくと、キリスト教の信仰者は増えていくという。なぜか、殉教者は「かっこいい」からです。死や滅びの美しさを放っていて、みんなを惹き付ける。
それはまずいので、徳川幕府は、「穴つるし」の拷問に変えた。穴に逆さつりにする。血流が下がってきて、顔が真っ赤になって膨れ上がって、醜く死んでいく。
そうやって醜さに追い詰めると、キリスト教に帰依する人が、どんどん少なくなったと。
「醜さを追い詰めると、キリスト教に帰依する人が少なくなった。日本人のキリスト教を受け入れるかどうかは、教義とは関係ない。美意識だった。自然に与えられた死や滅びの事実を、どう潔く引き受けるかといった点で、日本人の美意識は成り立っている」と。
殉教に憧れたのは、特攻隊も同じではないか。日本人は、どこかで人に見られている、と言う意識があると、正義のための死をあっけなくするのではないか。
9 小説とは?
「小説というのは、坪内逍遥が作った言葉ですが、どうして、小説か。
これは、小さな説ということ。
明治はまだ江戸時代を心の中で引きずる。男たるもの、江戸時代なら主君のために命を賭していたが、明治になると、「お国」のためになる。戦争もあるから、男のやることとなる。
しかし、文学者は、男にあるまじき、小説などを書いている。中身を読むと、女性に惚れたとか、振られたとかという話ばかり。男のやるべきことではないと。
だから、近代文学者は、世間の皆さん、小さな説に過ぎませんから許してください、男のくせに女々しい文学をやっています。でも小さな説だから勘弁してください。
小説を英語でいえばノーベルです。新しいという意味。イノベーションinnovationのnovですから。Novelすなわち、新しい説。
ところが、日本では、これを新説と訳さなかった」と。
だから、明治の内村鑑三などは、小説を嫌ったのかもしれにあ。
もし、新説と訳していたら、もっと、日本人は小説を読んでいただろう。なにせ、新しい物が好きな国民だから。
10 もし、現代、刀着用を許されたら?
「初対面の相手にものを言う時の、向こうの緊張感のなさが気になった。武士の時代だったらそうはいかない。武士は刀を持っている。初対面で、無礼の度が過ぎるとグサッとやられる。
だから、武士は絶えず他人との距離感を測って付き合った。刀が距離感を作り出した。モラルも作った。
モラルの語源は「モーレス」で、習慣、習俗の意。英語になってモラル、道徳になった。
刀がある時の習俗は良かった」と。
今、もし、刀を持ってよい風潮になれば、どうなるだろうか。
少し、気に障れば、すぐに、斬ってしまうだろうか。
反対に、言葉を慎重に選び、引き締まった社会になるだろうか。
最初は、死者も多数出るだろうが、そのうちに治まって来る来ると思う。そして、行動も言動も優雅になるのではないか。
反対に、目に見えないネットではもっと、苛酷な言動が増えるかもしれない。
明治四年の散髪令と明治九年の廃刀令で、武士の魂が傷ついた。
姿かたちの変化は大きい。精神性と関係しますから。
普段何気なくしている格好で、知らないうちに自分の精神が形作られている。
自分のあこがれの人の姿を真似ることは、その人に近づくことになるだろう。
11 変わった事を言う人は要注意?
「変化への警戒。自分を変えるのも、社会を変えるのもグラヂュアリズム gradualism、漸進的で行けと。
急進的なことは、たまにあってもいい。目の前にどう見てもひどい人がいたら、ラディカルに殴りかかるかもしれないが、そういうことは滅多にない。
自分勝手に、明日からこうなると、急激な変化を起こそうとする連中には警戒した方がいい」と。
急に変な事を書いたりする著者がいる。常識では考えられないような事を。
例えば、脳が10倍速くなるととか、これを食べれば、百寿者になれるとか。そういう本は本当に警戒した方がいい。