「真理先生」をさしおいてその登場人物たちで1冊だすとは。角川の変化球ぶりに脱帽です。
本書はどれもが山谷五兵衛なる人物が「おもしろい話がある」と主人公に語って聞かせるかたちをとっています。読者と主人公は、嘘かまことか疑いつつも山谷の話に引き込まれていきます。
「ある島の話」「山谷の結婚」
前者は王様を中心にして暮らすある島の話。島民は皆良い人で克己心が強く日々幸せに暮らしています。山谷五兵衛なる人物が語る設定で、王や大先生、ある若い妻の会話の端々に含蓄深い言葉がある。後者は山谷の結婚の話。何とも微笑ましいエピソードです。ただ27頁の「午前をさせて」は「避けて」の間違いではないでしょうか。
「彼の羨望」「美人」
前者は絵画論&芸術論、後者は美人論。登場人物たちにそれぞれ作者の考えを語らせたものでしょうか。「彼の羨望」に出てくる画家のたたずまいは中島敦の「名人伝」の主人公のような深みを感じさせますね。後者に出てくる屋敷の美人については作品が短すぎてその良さがピンと来ませんでした。
「優しい心」「天衣無縫」「二老人」
情けは人のためならずそのままのほっこり話、奔放な姪と不可思議な老作家との出会い、老兄弟の人生問答。起伏はないが実篤らしく愛や人生について理想をまっすぐ語った掌編群です。
「どっちが笑う」
自らの詩才を信じつつ夭逝した兄の通夜に事業で成功した双子の弟が来る。兄の友人たちと「果たして兄弟どちらが成功したか」について問答が始まります。アイデンティティを賭けた弟の主張に兄を擁護する友人たち。合間に轟く謎の笑い声。最後に笑うのは誰か。凄みのある作品です。
「不思議」
最後の落ちがよい。書家泰山の書いた雄大夢想な「天上天下唯我独尊」という字にまつわる話。オチが「不思議」です。
「悪魔の微笑」
ある画家の女弟子にまつわる悲しい話。同じ弟子の男に騙され身籠り捨てられついに波止場から身を投げる。助けてあげられなかった画家の弔辞が良い。騙した男弟子が後に大家になるのも安易な勧善懲悪にならず良い。
「幸福な女」
こちらもある画家のとこに出入りする女弟子。こちらも男に捨てられるのですが、その後良縁を得て子も産み幸せに暮らしています。「本当に安心してここに根を張っておりますの」「この子を産むために私は生きていたのだ」現代のフェミが発狂して出版禁止を叫びそうな内容ですw 前作とは真逆すぎる内容ということからしても、この山谷なる人物はやはり「嘘つき」ですねw
「一滴の涙」
本書ではじめて真理先生登場。娘(?)愛子を含め予備知識のない人には唐突ではないでしょうか。唐突に登場し唐突に白雲の絵のモデルになり唐突に自然や人生の真理を語る。完成した絵にそれほど思い込みなくそそくさと帰るが、白雲と私(山谷)は祝杯を挙げ涙を流す。この涙も唐突ですw
「兄弟」「今にやるぞ」
画家の白雲と書家の泰山。二人の兄弟はそれぞれの道で日々精進を重ねる。間を取り持つというかうまく使われ行ったり来たりの山谷。兄弟の言うことはまるで禅問答だがどこかユーモラス。間をアタフタする山谷の姿も微笑ましい。
「泰山の個展」「書家泰山の夢」「馬鹿一」「馬鹿一の夢」「仕合わせな男」
巻末の五編で題にある馬鹿一登場。石や雑草ばかりを描く売れない画家馬鹿一。それらを唯一無二の「美しいもの」と疑わず一心に描き続ける彼を周りが次第に認め賛辞を送るようになってゆきます。
主要人物であるはずの真理先生は一瞬しか現れず、周辺に配された人々であまれた一冊です。ほぼ皆が善意と愛情に溢れた好人物ばかりで、幸せに満ちた作品世界です。この「山谷もの」シリーズの代表作である「真理先生」を改めて読みたくなりました。

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登録情報
- ASIN : B000JB7RH4
- 出版社 : 角川書店 (1954/1/1)
- 発売日 : 1954/1/1
- 言語 : 英語
- 文庫 : 292ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,780,474位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 18,573位角川文庫
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
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2018年1月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古いものだから、仕方ないのかもしれませんが、もう少し、綺麗な状態を期待していました。
でも、ずっと探していたので、購入出来たのは嬉しかったです
でも、ずっと探していたので、購入出来たのは嬉しかったです
2013年5月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本もきれいだし、中に発行当時入っていたらしき説明の紙も入っていて興味深いでした。
2023年9月16日に日本でレビュー済み
本作「馬鹿一」は著者の名作「真理先生」のスピンオフ的作品といったところでしょうか。真理先生、馬鹿一、白雲子、泰山など「真理先生」の登場人物が中盤辺りから現れて話もぐっと面白くなります。人物のキャラや相関関係を知るために本作を読む前に「真理先生」を読んでおいた方が楽しめるかもしれません。
山谷五兵衛(この人も真理先生の登場人物)のよもやま話から展開される全編、なかでも真理先生の肖像画を画家白雲子が描く話や、ひたすら石ころを描き続ける馬鹿一の話などが感動的で良かったです。全編対話が中心でとても読みやすいのですが、平易な言葉の中にも心に深く染み入るものを盛り込んでいるのが素晴らしいところ。
山谷五兵衛(この人も真理先生の登場人物)のよもやま話から展開される全編、なかでも真理先生の肖像画を画家白雲子が描く話や、ひたすら石ころを描き続ける馬鹿一の話などが感動的で良かったです。全編対話が中心でとても読みやすいのですが、平易な言葉の中にも心に深く染み入るものを盛り込んでいるのが素晴らしいところ。
2005年10月15日に日本でレビュー済み
残っているのは『友情』と『真理先生』くらいだろうか?
新潮文庫から武者小路作品の多くが外されて久しい。
“売れないから外した”だけであろうが、違った見方をすれば大人の世代が子供に対し読むように指導していない事に問題があるのだ。
悲しいかぎりだ。
大げさに言えば青少年に武者小路の作品が紹介されなくなる事は日本にとって多大な損失である。
特に『馬鹿一』が外されている事が悔やまれる。
『馬鹿一』→『真理先生』の順で読んでゆけば、武者小路の精神世界に入ってゆける。彼の言わんとするところが、ぼんやりと掴めてくる。
馬鹿一は不思議な人物だ。
どこにでもころがっていそうな石をじっと見つめ石に涙ながらに謝り、傍から見れば下手クソな石の絵を描き続けている。
登場人物一人一人も不思議な個性を持っている。
そして大方の登場人物は馬鹿一の才能に注目している。温かい視線で彼を見守っている。
社会的に成功している筈の登場人物が、この物語の中では妙にちっぽけな人物に見えてくる。
武者小路は社会的に成功している芸術家とそうではない芸術家を登場させながら、より高い精神世界への入り口はどこにあるのか読者と共に考えている様に見受けられる。
ところで
武者小路の物語の中での言葉遣い・言い回しは大変に上品だ。女性に語らせる言葉は実に品が良い。
文章全体の美しさは漱石と較べようもないが、言葉遣いだけをとっても青少年に読ませる価値があると思う。
特に中学・高校の国語教師に問いたい。
若い時代に武者小路の精神世界に触れる事は、とても有意義に思えるのだが皆さんはどう思われるだろうか?
新潮文庫から武者小路作品の多くが外されて久しい。
“売れないから外した”だけであろうが、違った見方をすれば大人の世代が子供に対し読むように指導していない事に問題があるのだ。
悲しいかぎりだ。
大げさに言えば青少年に武者小路の作品が紹介されなくなる事は日本にとって多大な損失である。
特に『馬鹿一』が外されている事が悔やまれる。
『馬鹿一』→『真理先生』の順で読んでゆけば、武者小路の精神世界に入ってゆける。彼の言わんとするところが、ぼんやりと掴めてくる。
馬鹿一は不思議な人物だ。
どこにでもころがっていそうな石をじっと見つめ石に涙ながらに謝り、傍から見れば下手クソな石の絵を描き続けている。
登場人物一人一人も不思議な個性を持っている。
そして大方の登場人物は馬鹿一の才能に注目している。温かい視線で彼を見守っている。
社会的に成功している筈の登場人物が、この物語の中では妙にちっぽけな人物に見えてくる。
武者小路は社会的に成功している芸術家とそうではない芸術家を登場させながら、より高い精神世界への入り口はどこにあるのか読者と共に考えている様に見受けられる。
ところで
武者小路の物語の中での言葉遣い・言い回しは大変に上品だ。女性に語らせる言葉は実に品が良い。
文章全体の美しさは漱石と較べようもないが、言葉遣いだけをとっても青少年に読ませる価値があると思う。
特に中学・高校の国語教師に問いたい。
若い時代に武者小路の精神世界に触れる事は、とても有意義に思えるのだが皆さんはどう思われるだろうか?
2013年6月15日に日本でレビュー済み
のんびり始めた文学者の住居巡りで、今回は、武者小路実篤邸に行った(調布市、武者小路実篤記念館、京王線つつじヶ丘駅から徒歩8分)。前回の林芙美子邸では、贅を尽くした家の作りに目を奪われたが、今回は、池あり、林ありの広大な敷地に感銘を受けた。
ところで、武者小路実篤その人に関しては、あくまでも、個人的意見と断った上で言えば、いい印象をもっていない。『一途なまじめさ』をもった人間だからだ。まじめな人間は、もとより信用できないが、それに一途さが加わると、もういただけない。そういう人間は、まじめ一徹で、どんな場合でも怠けることを悪と見なす。
戦前には、トルストイ主義者であった実篤は、戦時中は、いとも簡単にトルストイ主義を捨てさり、軍国主義の推進者になった。戦争が終わると、公職を追放されるものの、いつのまにか、またトルストイ主義者に戻った。一貫しているのは、いつも、まじめに何かに一生懸命取り組んでいるという点で、その一途さには頭が下がるものの、熱心に取り組んでいる対象が、こうも簡単に変わるようでは、節操がないと言われても仕方がないだろう(すべての戦争を否定するのがトルストイ主義ではないか)。こういう人は、何でもいいから、何かに一生懸命取り組んでいないと、心が落ち着かないのだろう。
日本の軍国主義時代に、軍国主義に(あからさまに反対しなかったとはいえ)くみしなかった作家たちとして、永井荷風、谷崎潤一郎、里見とん、坂口安吾等の名前が頭に浮かぶが、彼らは、まじめ一徹ではなく、場合によっては、ふまじめになることが、 別の言い方をすれば、世間の流れに逆らっても、自分の趣味にうつつを抜かすことが出来た。それが出来なかったところに、実篤の欠点があったと思う。
表題作には、昔の故障したレコードのように、あるところに来ると針がひっかかって、また元に戻るというもどかしさを感じた。元に戻っても、そこから楕円形のように広がっていくのであればいいが、この作品の場合、同じ円をぐるぐる回っているような気がし、実篤その人の『融通のきかない一途さ』を見る思いがした。
とはいえ、欠点は、往々にして長所と表裏一体になっているもので、この『融通のきかない一途さ』があったればこそ、『新しい村』の建設という、常識では考えられないような途方もない計画に本気で取り組むことが出来たのであろう。
ところで、武者小路実篤その人に関しては、あくまでも、個人的意見と断った上で言えば、いい印象をもっていない。『一途なまじめさ』をもった人間だからだ。まじめな人間は、もとより信用できないが、それに一途さが加わると、もういただけない。そういう人間は、まじめ一徹で、どんな場合でも怠けることを悪と見なす。
戦前には、トルストイ主義者であった実篤は、戦時中は、いとも簡単にトルストイ主義を捨てさり、軍国主義の推進者になった。戦争が終わると、公職を追放されるものの、いつのまにか、またトルストイ主義者に戻った。一貫しているのは、いつも、まじめに何かに一生懸命取り組んでいるという点で、その一途さには頭が下がるものの、熱心に取り組んでいる対象が、こうも簡単に変わるようでは、節操がないと言われても仕方がないだろう(すべての戦争を否定するのがトルストイ主義ではないか)。こういう人は、何でもいいから、何かに一生懸命取り組んでいないと、心が落ち着かないのだろう。
日本の軍国主義時代に、軍国主義に(あからさまに反対しなかったとはいえ)くみしなかった作家たちとして、永井荷風、谷崎潤一郎、里見とん、坂口安吾等の名前が頭に浮かぶが、彼らは、まじめ一徹ではなく、場合によっては、ふまじめになることが、 別の言い方をすれば、世間の流れに逆らっても、自分の趣味にうつつを抜かすことが出来た。それが出来なかったところに、実篤の欠点があったと思う。
表題作には、昔の故障したレコードのように、あるところに来ると針がひっかかって、また元に戻るというもどかしさを感じた。元に戻っても、そこから楕円形のように広がっていくのであればいいが、この作品の場合、同じ円をぐるぐる回っているような気がし、実篤その人の『融通のきかない一途さ』を見る思いがした。
とはいえ、欠点は、往々にして長所と表裏一体になっているもので、この『融通のきかない一途さ』があったればこそ、『新しい村』の建設という、常識では考えられないような途方もない計画に本気で取り組むことが出来たのであろう。
2009年7月9日に日本でレビュー済み
夏目漱石の『
草枕 (新潮文庫)
』の冒頭に、「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい」というのがある。『馬鹿一』の主人公、お人よしの下山はじむ、愛称「馬鹿一」は正に、存在そのものが「芸術の士」だ。
自分の画や詩が評価されなくても、「君達にはわからないが、僕は千年後に知己が出てくれば、満足するよ」と言い、さらに「それでいいのだよ。僕は自分で満足しているのだ。僕は人間一人々々に愛されるより、自然に愛される方が好きなのだ」と平然と言う。
「この世は美しいもので一ぱいなので、醜いものを見る暇はない」と言って、身近な草花や石ころを絵に描いたり、詩を読む。
中島敦『 李陵・山月記 (新潮文庫) 』の李徴とは対照的かもしれない。比較して読まれると良いと思う。
自分の画や詩が評価されなくても、「君達にはわからないが、僕は千年後に知己が出てくれば、満足するよ」と言い、さらに「それでいいのだよ。僕は自分で満足しているのだ。僕は人間一人々々に愛されるより、自然に愛される方が好きなのだ」と平然と言う。
「この世は美しいもので一ぱいなので、醜いものを見る暇はない」と言って、身近な草花や石ころを絵に描いたり、詩を読む。
中島敦『 李陵・山月記 (新潮文庫) 』の李徴とは対照的かもしれない。比較して読まれると良いと思う。