フレデリック・ショパンが10歳の時音楽の先生ジョゼラ・エルスナーは天才少年のために進むべき1つの道を、ショパンの父に申し出た。1つはパリへ行って演奏会を聞くこと、1つは祖国ポーランドのために大音楽を作曲することであった。第1の思いつきは貧乏のために果たすことが出来ず、月日は流れて、ショパンが22歳の時、ポーランドは革命騒ぎで、彼はエルスナー教授と共に、動乱の祖国を去ってパリへ赴いた。パリに着くとエルスナーは愛弟子を当時有名な音楽興行師プレイエルのもとへ伴った。2人が追い帰されようとした時、フランツ・リストが何気なくショパンの曲をピアノで弾き始めた。ショパンもやがてピアノを弾き、二重奏となった。天才は天才を知り、2人の友情の絆は結ばれ、プレイエルはショパンのために独奏会を開く準備を始めた。そのリサイタルの日、彼の親友たる革命の志12人が捕縛され、1人が死んだという知らせを受けたのだった…。