アガサ・クリスティが好きで全巻持ってます。
買い始めて30年以上も経てばボロボロになる巻もあるわけで数冊買い替えです。
古き良き時代の定番ミステリーです。

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死が最後にやってくる (ハヤカワ・ミステリ文庫 1-34) ペーパーバック – 1978/7/1
アガサ クリスティー
(著),
加島 祥造
(翻訳)
- 本の長さ317ページ
- 言語日本語
- 出版社早川書房
- 発売日1978/7/1
- ISBN-104150700346
- ISBN-13978-4150700348
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登録情報
- 出版社 : 早川書房 (1978/7/1)
- 発売日 : 1978/7/1
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 317ページ
- ISBN-10 : 4150700346
- ISBN-13 : 978-4150700348
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,656,394位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1890年、保養地として有名なイギリスのデヴォン州トーキーに生まれる。中産階級の家庭に育つが、のちに一家の経済状況は悪化してしまい、やがてお金のかからない読書に熱中するようになる。特にコナン・ドイルのシャーロック・ホームズものを読んでミステリに夢中になる。
1914年に24歳でイギリス航空隊のアーチボルド・クリスティーと結婚し、1920年には長篇『スタイルズ荘の怪事件』で作家デビュー。1926年には謎の失踪を遂げる。様々な憶測が飛び交うが、10日後に発見された。1928年にアーチボルドと離婚し、1930年に考古学者のマックス・マローワンに出会い、嵐のようなロマンスののち結婚した。
1976年に亡くなるまで、長篇、短篇、戯曲など、その作品群は100以上にのぼる。現在も全世界の読者に愛読されており、その功績をたたえて大英帝国勲章が授与されている。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2009年5月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
最初はここまで素晴らしいと思わなかった。
次々死んでいく。
アガサの作品の中でも容疑者がここまで次々死んでいくのは「そして誰もいなくなった」以外ないのではないか?と思う程だ。
謎を解くキーワードを見つければ犯人を見つけることは可能かもしれない。
「早すぎるのもよくないが、遅すぎるのもよくない」という意味深長な趣旨の言葉が何を意味するのかが最後にわかった。
スリルの点では申し分ない。アガサ作品でも最高ランクだと思う。
古代エジプトでも現代でも人間というものは変わらないものだと思った。
次々死んでいく。
アガサの作品の中でも容疑者がここまで次々死んでいくのは「そして誰もいなくなった」以外ないのではないか?と思う程だ。
謎を解くキーワードを見つければ犯人を見つけることは可能かもしれない。
「早すぎるのもよくないが、遅すぎるのもよくない」という意味深長な趣旨の言葉が何を意味するのかが最後にわかった。
スリルの点では申し分ない。アガサ作品でも最高ランクだと思う。
古代エジプトでも現代でも人間というものは変わらないものだと思った。
2022年12月11日に日本でレビュー済み
古代エジプトの南王国が舞台のミステリ。王国の首都の墓地管理人をする一家の独裁的な寡夫の主が、北から若い愛妾を連れ帰ったことからはじまる事件。主の息子嫁たちは彼女をいびるが、それをネタに訴えられた主は息子たちと絶縁を宣告。息子や息子嫁達が呆然とする中、愛妾は不審死を遂げる。一旦は快哉を叫んだ彼らだが、次々に病や病死に襲われていき…あのテーマじゃないだろうか、だれかしら生き残るのか不安にすらさせるが、極めて合理的な解決が訪れる。
現代人読者の目からは犯人も手口も概ね見当がつくだろう(大体現代のミステリ読者は「誰が最も怪しくないか」を考える癖がある)が、合理精神とは無縁な世界に住む作中人物たちが大真面目に右往左往する心理はなかなか説得的だ。
現代人読者の目からは犯人も手口も概ね見当がつくだろう(大体現代のミステリ読者は「誰が最も怪しくないか」を考える癖がある)が、合理精神とは無縁な世界に住む作中人物たちが大真面目に右往左往する心理はなかなか説得的だ。
2018年11月20日に日本でレビュー済み
古代エジプトの墓所守の家族内で起こる連続殺人事件。ポアロやマープルといったシリーズ探偵が登場しない歴史ミステリーで、作者としては異色の作品。
家長である父親、その子供の長男夫婦、次男夫婦、三男、夫を亡くして出戻りの長女、家長の年老いた母、雇われの管理人の男、古参の召使の女が主な登場人物。登場人物それぞれが個性的で、性格の違いによる書き分けが巧い。特に、家長の母親エサの慧眼ぶりと召使のへネットの嫌味な性格が印象的。
家業の墓所守や農地経営等で一族の生計を立ててきたが、父親が出張先から妾を連れて戻ってきたことで、微妙なバランスを保っていた家族内の関係に波乱が生じ、連続殺人へとつながっていく。
お互いの微妙な心理関係を織り込みながら進行していくストーリーは、なかなか読ませる。ヒロイン役の長女レニセンブがホリとカメニのどちらを選ぶのかというラブロマンスとしての興味もある。
犯人は1つだけトリックを使っているが、たいしたものではないし、読者が推理する要素はほとんどないので、ミステリーとしては平凡。
家長である父親、その子供の長男夫婦、次男夫婦、三男、夫を亡くして出戻りの長女、家長の年老いた母、雇われの管理人の男、古参の召使の女が主な登場人物。登場人物それぞれが個性的で、性格の違いによる書き分けが巧い。特に、家長の母親エサの慧眼ぶりと召使のへネットの嫌味な性格が印象的。
家業の墓所守や農地経営等で一族の生計を立ててきたが、父親が出張先から妾を連れて戻ってきたことで、微妙なバランスを保っていた家族内の関係に波乱が生じ、連続殺人へとつながっていく。
お互いの微妙な心理関係を織り込みながら進行していくストーリーは、なかなか読ませる。ヒロイン役の長女レニセンブがホリとカメニのどちらを選ぶのかというラブロマンスとしての興味もある。
犯人は1つだけトリックを使っているが、たいしたものではないし、読者が推理する要素はほとんどないので、ミステリーとしては平凡。
2010年4月2日に日本でレビュー済み
初めのうちは、どこの文化の話かよくわからなかった。
現代のイギリスの話でないことは分った。
昔の話なので、生活の実感がわかなかった。
家族の間の関係は、資産がある家だとこういうふうなんだろうなと想像はついた。
登場人物でアガサクリスティに近いのは、
インホテプの娘レニセンブと
インホテプの母エサかな思った。
「生きている妾と、死んだ妾では大違い」
といった、人生訓のような言葉があちこちに出てくる。
エジプト文化の人生訓なのか、
アガサクリスティの見聞きした人生訓なのははわかららなかった。
話の筋としては、へネットという召使の位置付けがよくわからなかった。
殺人者の正体も意外だった。
へネットの位置付けと殺人者の正体の2点を除けば、とても奥深い物語だと感じました。
エジプトへ行って,エジプト文化に触れてから再読したい。
現代のイギリスの話でないことは分った。
昔の話なので、生活の実感がわかなかった。
家族の間の関係は、資産がある家だとこういうふうなんだろうなと想像はついた。
登場人物でアガサクリスティに近いのは、
インホテプの娘レニセンブと
インホテプの母エサかな思った。
「生きている妾と、死んだ妾では大違い」
といった、人生訓のような言葉があちこちに出てくる。
エジプト文化の人生訓なのか、
アガサクリスティの見聞きした人生訓なのははわかららなかった。
話の筋としては、へネットという召使の位置付けがよくわからなかった。
殺人者の正体も意外だった。
へネットの位置付けと殺人者の正体の2点を除けば、とても奥深い物語だと感じました。
エジプトへ行って,エジプト文化に触れてから再読したい。
2004年10月3日に日本でレビュー済み
長編ミステリを読んでいると、秀逸なトリックで名作と謳われているものでさえ、冗長で、退屈が永遠に続くかと思われるような中盤の展開に、閉口することがある。中盤対策は、トリックの種明かしを最後に持ってこざるを得ない長編ミステリが背負う宿命ともいえるものであり、多分、書き手が最も頭を悩ますところの一つなのだろう。
アガサは、そうした中盤の処理に長けた、卓越したストーリーテラーであり、プロット作りの名手だが、中盤を盛り上げる方法の一つを、ある作品の中で、次のように登場人物に語らせている。「小説が少しだれて来たら、だらっと血を流させれば引き締まりますよ」。実は、この作品でも、その手法を使っている。それも、次から次へと、殺していくのである。あの「そして誰もいなくなった」状態になってしまうのではないかと、心配になってくるほどである。しかし、最後の最後まで、犯人の的を絞らせないところは、「さすがアガサ」というしかない。
また、アガサは、ミステリに恋愛を絡ませることを得意にしているが、この作品では、常用する「ミステリに花を添える」パターンではなく、ミステリと同時並行させるかなり濃密な描写をしており、作品に奥行きと幅が加わり、ミステリと一般小説の幸せな合体が実現していることも特筆したい。
かくして、紀元前二千年、こんな前代未聞、常識破りの時代設定で、アガサ自身が「書き上げるのに最も苦心した作品である」と述懐したこのミステリは、見事に成り立ったのである。
アガサは、そうした中盤の処理に長けた、卓越したストーリーテラーであり、プロット作りの名手だが、中盤を盛り上げる方法の一つを、ある作品の中で、次のように登場人物に語らせている。「小説が少しだれて来たら、だらっと血を流させれば引き締まりますよ」。実は、この作品でも、その手法を使っている。それも、次から次へと、殺していくのである。あの「そして誰もいなくなった」状態になってしまうのではないかと、心配になってくるほどである。しかし、最後の最後まで、犯人の的を絞らせないところは、「さすがアガサ」というしかない。
また、アガサは、ミステリに恋愛を絡ませることを得意にしているが、この作品では、常用する「ミステリに花を添える」パターンではなく、ミステリと同時並行させるかなり濃密な描写をしており、作品に奥行きと幅が加わり、ミステリと一般小説の幸せな合体が実現していることも特筆したい。
かくして、紀元前二千年、こんな前代未聞、常識破りの時代設定で、アガサ自身が「書き上げるのに最も苦心した作品である」と述懐したこのミステリは、見事に成り立ったのである。
2017年2月23日に日本でレビュー済み
1990年9月13日、英国の老舗出版会社Hatchardsから、“Crime Companion”と題するペーパーバックが刊行されました。
副題に“100 Top Crime Novels of All Time Selected By The Crime Writers' Association”とあるように、これは英国推理作家協会が選んだ、100年に渡る英国推理小説のオールタイムベスト100。クリスティの著作からは3作品がランクインしています。
その3作というのは、『アクロイド殺し』(5位)、『そして誰もいなくなった』(19位)、そして残る一作がなんとこの『死が最後にやってくる』(83位)なのです。ポアロやマープルといった人気の探偵役が登場しないこともあり、クリスティ作品中でも、決して著名とはいえない作品ですが、本国のプロたちからはなかなかの評価を得ていることがわかります。
その理由は、やはりこの作品の歴史ミステリとしてのインパクトにあるといえるでしょう。何しろ、舞台となっているのは紀元前2000年という、途方もない大昔の、しかも英国から遠く離れたエジプトの地。いくら何でも、相当にアクロバテッィクな設定です。プロになればなるほど、その困難さが実感でき、翻って高評価へと繋がるのかもしれません。
しかし、歴史ミステリという冠に期待し過ぎると、意外に肩透かしを食らうかもしれません。というのは、クリスティ自身が作者のことば(5ページ)で「場所も年代も物語にとっては付随的なもので、どこの場所でいつ起こったとしても構わない」と言い切ってしまっているのです。
実際、読んでみると、古代エジプトの香りよりも、クリスティが得意とした大豪邸とそこに暮らす一家の中で起こる葛藤劇、という面を遙かに強く感じます。従って、歴史ドキュメンタリーや古代の謎解き番組から喚起される古代エジプトらしさを求めてしまうと、物足りなく感じてしまうかもしれません。
これはクリスティが歴史に無知だったせいではありません。後述(「物語の背景となる時代について」の項をご参照ください)するように、考古学者の夫を持つクリスティは、専門家から詳細な助言を得ており、この時代についてかなりの知識を持っていたことがわかります。しかし、それを徒に主軸にするのではなく、あくまで自身の作風のフレーバーとして用いるに留めています。この選択のおかげで、本作は歴史ミステリでありながら、その時代についての知識がまったくいらない、もっといえば、歴史に興味のない人でも読める内容になっているのです。
しかも、歴史という要素の代わりに、クリスティが前面に押し出してきたテーマは、実は謎解きですらありません。血の繋がった親子、あるいは夫婦でありながら、ひたすらいがみ合い、侮蔑し合い、愛情も敬慕もない家族。彼らは同じ屋根のもとで暮らす者たちが次々と殺されても、助け合おうとも、協力して犯人を探そうともしません。探偵役を振られた人物すら、証拠がないという理由で、自身の考えを懐にしまってしまいます。その結果、一家が事実上崩壊するほどの連続殺人を招いてしまうのです。
ここから受ける印象は、ミステリというよりも舞台の悲劇、それもシニカルでブラックジョークに富んだ、もしかしたら悲劇ではなく喜劇なのかと感じさせる英国ならではの悲劇でしょう。ヒロイン役である一家の末娘レニセンブと、その相談役である書記のホリを除いて、人間の負の面だけが強調されたキャラクターばかりで構成されているのも意図的な人物配置であると思われます。物語の舞台が屋敷とそのそばにある墓所など、かなり限定されていること、極端に長いセリフが多用されていることなども、舞台劇を想起させます。
しかも、クリスティはロマンスを巧みに取り込むことで、作品の本質である毒気を巧みに隠してしまっています。未亡人で子供もいるレニセンブがその割に世間知らずで純朴なところに、人によってはイラつきを覚えるかもしれませんが、ヒロインがこうした性格だからこそ、読者は感情移入できる対象を見出せるのです。もし、彼女までが黒い人間であったら、まったく雰囲気の違った作品になってしまっているでしょう。
1940年代中盤に入ると、クリスティはほとんど短編を書かなくなり、長編の発刊ペースも30年代に比べて減ってきます。そして、その関心も純粋に謎解きをメインにしたミステリよりも、ミステリと普通小説の融合、もっといえば、ミステリの要素を持った普通小説を書くことに注力するようになります。
『死が最後にやってくる』は、そうした志向の変化と、劇作家でもあったクリスティの側面、さらには考古学への興味などが結合して生み出された作品といえるでしょう。歴史ミステリでありながら、それを超越してしまった一作。クリスティ作品を少なくとも20作以上お読みなり、特に華々しい知名度を誇る1930年代の作品よりも、じっくりと人間を見つめた1950年代以降の作品がお好きな方には、きっと楽しめることと思います。
【物語の背景となる時代について】
本作は、紀元前2000年頃という大昔を舞台にしていますが、読むにあたって、歴史的素養や知識をまったく必要としません。
しかし、夫が考古学者であり、その方面に多くの知人を持っていたクリスティは、読者に負担をかけないように留意しながらも、歴史的なバックボーンを丁寧に構築しています。それは、屋敷の調度や装飾、そこに住む人たちの衣服や食事、彼らが従事している日常の仕事、さらには葬儀の様子まで、微に入り細を穿ちます。老齢のエサが自分の葬式の副葬品についてこと細かに語る部分(226ページ)などは、博物館などでそれらの現物を見たことがある人には、思わず頷きたくなることでしょう。
時代については、巻頭にある作者のことばや、作中(特に180ページ)の記述からすると、歴史学でいうエジプト第1中間期の末期に該当すると思われます。
古代エジプト王国は、当初ナイル川デルタ地帯(下エジプト)のメンフィスを中心に栄えます。ここは現在のエジプトアラブ共和国の首都、カイロの南に位置し、紀元前31世紀頃から紀元前22世紀中頃まで、1000年以上に渡って、王国の中心地となりました。中でも、第3王朝から第6王朝(番号は歴史学上便宜的に付けられている数字)の時代が最盛期で、古代エジプトというと誰もが思い浮かべるであろう、クフ王をはじめとするピラミッドが建設されたのもこの頃です。
しかし、第6王朝の途中から王権は衰退し、各地の諸侯が独立勢力となる分裂時代が訪れます。これがエジプト第1中間期です。
この時代、かつての先進地域であったメンフィスは秩序が崩壊し、大混乱に陥ったといわれます。代わって、下エジプトの中心は、ナイル川を遡ったネンネス(ヘラクレオポリス)を中心とする一帯に移り、ナイル川中流域のテーベを中心とする上エジプトを収めた支配者たちとの南北対立が起こります。両者は戦いを繰り返し、最終的に南が北を呑み込む形でエジプトの再統一が成されるのです。本作は、この再統一がまもなくなされる時期を背景としています。
また、舞台となるシーブズは、現在のルクソールにあたり、当時としては上エジプトの中心地にあります。エジプトの分裂を終わらせる、新興にして最強勢力の、そのもっとも繁栄している一帯です。巨額の財産を持つインホテプの屋敷がある場所として、相応しいといえるでしょう。
対して、インホテプ一家を崩壊に導くファム・ファタール、ノフレトや、ヒロインであるレニセンブと恋愛模様を繰り広げる書記のカメニはメンフィスの出身とされています。作中、ノフレトは悪女と呼ぶに相応しい性格と行動を見せていますが、かつて政治文化の中心であった都市で生まれながら、遠く離れた農村地域の金持ち中年男の妾となった境遇を考えると、その態度にも無理からぬ面が出てきます。また、カメニが恋の歌をしきりと歌ってレニセンブの気持ちを引き寄せていくのも、いかにも都人らしい文化的な態度だといえます。
歴史を材に取り、それについて調査、研究を重ねながら、それらについての蘊蓄を披瀝しない――ここには、クリスティの作家性、というよりもむしろ人間性がよく表れているといえるのではないでしょうか。
【補足データ】
初版:1944[昭和19]年10月(米版。英国版は1945年3月刊行)
初版刊行時点でのクリスティーの満年齢:54歳
長編として:全66作中の35作目
特定の探偵役が登場しない長編として:全17作中の9作目
副題に“100 Top Crime Novels of All Time Selected By The Crime Writers' Association”とあるように、これは英国推理作家協会が選んだ、100年に渡る英国推理小説のオールタイムベスト100。クリスティの著作からは3作品がランクインしています。
その3作というのは、『アクロイド殺し』(5位)、『そして誰もいなくなった』(19位)、そして残る一作がなんとこの『死が最後にやってくる』(83位)なのです。ポアロやマープルといった人気の探偵役が登場しないこともあり、クリスティ作品中でも、決して著名とはいえない作品ですが、本国のプロたちからはなかなかの評価を得ていることがわかります。
その理由は、やはりこの作品の歴史ミステリとしてのインパクトにあるといえるでしょう。何しろ、舞台となっているのは紀元前2000年という、途方もない大昔の、しかも英国から遠く離れたエジプトの地。いくら何でも、相当にアクロバテッィクな設定です。プロになればなるほど、その困難さが実感でき、翻って高評価へと繋がるのかもしれません。
しかし、歴史ミステリという冠に期待し過ぎると、意外に肩透かしを食らうかもしれません。というのは、クリスティ自身が作者のことば(5ページ)で「場所も年代も物語にとっては付随的なもので、どこの場所でいつ起こったとしても構わない」と言い切ってしまっているのです。
実際、読んでみると、古代エジプトの香りよりも、クリスティが得意とした大豪邸とそこに暮らす一家の中で起こる葛藤劇、という面を遙かに強く感じます。従って、歴史ドキュメンタリーや古代の謎解き番組から喚起される古代エジプトらしさを求めてしまうと、物足りなく感じてしまうかもしれません。
これはクリスティが歴史に無知だったせいではありません。後述(「物語の背景となる時代について」の項をご参照ください)するように、考古学者の夫を持つクリスティは、専門家から詳細な助言を得ており、この時代についてかなりの知識を持っていたことがわかります。しかし、それを徒に主軸にするのではなく、あくまで自身の作風のフレーバーとして用いるに留めています。この選択のおかげで、本作は歴史ミステリでありながら、その時代についての知識がまったくいらない、もっといえば、歴史に興味のない人でも読める内容になっているのです。
しかも、歴史という要素の代わりに、クリスティが前面に押し出してきたテーマは、実は謎解きですらありません。血の繋がった親子、あるいは夫婦でありながら、ひたすらいがみ合い、侮蔑し合い、愛情も敬慕もない家族。彼らは同じ屋根のもとで暮らす者たちが次々と殺されても、助け合おうとも、協力して犯人を探そうともしません。探偵役を振られた人物すら、証拠がないという理由で、自身の考えを懐にしまってしまいます。その結果、一家が事実上崩壊するほどの連続殺人を招いてしまうのです。
ここから受ける印象は、ミステリというよりも舞台の悲劇、それもシニカルでブラックジョークに富んだ、もしかしたら悲劇ではなく喜劇なのかと感じさせる英国ならではの悲劇でしょう。ヒロイン役である一家の末娘レニセンブと、その相談役である書記のホリを除いて、人間の負の面だけが強調されたキャラクターばかりで構成されているのも意図的な人物配置であると思われます。物語の舞台が屋敷とそのそばにある墓所など、かなり限定されていること、極端に長いセリフが多用されていることなども、舞台劇を想起させます。
しかも、クリスティはロマンスを巧みに取り込むことで、作品の本質である毒気を巧みに隠してしまっています。未亡人で子供もいるレニセンブがその割に世間知らずで純朴なところに、人によってはイラつきを覚えるかもしれませんが、ヒロインがこうした性格だからこそ、読者は感情移入できる対象を見出せるのです。もし、彼女までが黒い人間であったら、まったく雰囲気の違った作品になってしまっているでしょう。
1940年代中盤に入ると、クリスティはほとんど短編を書かなくなり、長編の発刊ペースも30年代に比べて減ってきます。そして、その関心も純粋に謎解きをメインにしたミステリよりも、ミステリと普通小説の融合、もっといえば、ミステリの要素を持った普通小説を書くことに注力するようになります。
『死が最後にやってくる』は、そうした志向の変化と、劇作家でもあったクリスティの側面、さらには考古学への興味などが結合して生み出された作品といえるでしょう。歴史ミステリでありながら、それを超越してしまった一作。クリスティ作品を少なくとも20作以上お読みなり、特に華々しい知名度を誇る1930年代の作品よりも、じっくりと人間を見つめた1950年代以降の作品がお好きな方には、きっと楽しめることと思います。
【物語の背景となる時代について】
本作は、紀元前2000年頃という大昔を舞台にしていますが、読むにあたって、歴史的素養や知識をまったく必要としません。
しかし、夫が考古学者であり、その方面に多くの知人を持っていたクリスティは、読者に負担をかけないように留意しながらも、歴史的なバックボーンを丁寧に構築しています。それは、屋敷の調度や装飾、そこに住む人たちの衣服や食事、彼らが従事している日常の仕事、さらには葬儀の様子まで、微に入り細を穿ちます。老齢のエサが自分の葬式の副葬品についてこと細かに語る部分(226ページ)などは、博物館などでそれらの現物を見たことがある人には、思わず頷きたくなることでしょう。
時代については、巻頭にある作者のことばや、作中(特に180ページ)の記述からすると、歴史学でいうエジプト第1中間期の末期に該当すると思われます。
古代エジプト王国は、当初ナイル川デルタ地帯(下エジプト)のメンフィスを中心に栄えます。ここは現在のエジプトアラブ共和国の首都、カイロの南に位置し、紀元前31世紀頃から紀元前22世紀中頃まで、1000年以上に渡って、王国の中心地となりました。中でも、第3王朝から第6王朝(番号は歴史学上便宜的に付けられている数字)の時代が最盛期で、古代エジプトというと誰もが思い浮かべるであろう、クフ王をはじめとするピラミッドが建設されたのもこの頃です。
しかし、第6王朝の途中から王権は衰退し、各地の諸侯が独立勢力となる分裂時代が訪れます。これがエジプト第1中間期です。
この時代、かつての先進地域であったメンフィスは秩序が崩壊し、大混乱に陥ったといわれます。代わって、下エジプトの中心は、ナイル川を遡ったネンネス(ヘラクレオポリス)を中心とする一帯に移り、ナイル川中流域のテーベを中心とする上エジプトを収めた支配者たちとの南北対立が起こります。両者は戦いを繰り返し、最終的に南が北を呑み込む形でエジプトの再統一が成されるのです。本作は、この再統一がまもなくなされる時期を背景としています。
また、舞台となるシーブズは、現在のルクソールにあたり、当時としては上エジプトの中心地にあります。エジプトの分裂を終わらせる、新興にして最強勢力の、そのもっとも繁栄している一帯です。巨額の財産を持つインホテプの屋敷がある場所として、相応しいといえるでしょう。
対して、インホテプ一家を崩壊に導くファム・ファタール、ノフレトや、ヒロインであるレニセンブと恋愛模様を繰り広げる書記のカメニはメンフィスの出身とされています。作中、ノフレトは悪女と呼ぶに相応しい性格と行動を見せていますが、かつて政治文化の中心であった都市で生まれながら、遠く離れた農村地域の金持ち中年男の妾となった境遇を考えると、その態度にも無理からぬ面が出てきます。また、カメニが恋の歌をしきりと歌ってレニセンブの気持ちを引き寄せていくのも、いかにも都人らしい文化的な態度だといえます。
歴史を材に取り、それについて調査、研究を重ねながら、それらについての蘊蓄を披瀝しない――ここには、クリスティの作家性、というよりもむしろ人間性がよく表れているといえるのではないでしょうか。
【補足データ】
初版:1944[昭和19]年10月(米版。英国版は1945年3月刊行)
初版刊行時点でのクリスティーの満年齢:54歳
長編として:全66作中の35作目
特定の探偵役が登場しない長編として:全17作中の9作目